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H15. 5.14 大阪地裁 平成12(ワ)3913 倉敷紡績思想差別損害賠償事件  主文:1 被告は,原告Aに対し,2539万7241円及び別紙「原告A認容遅延損害金」記載の金員を支払え。2 被告は,原告Bに対し,2066万8193円及び別紙「原告B認容遅延損害金」記載の金員を支払え。.....

H15. 5.14 大阪地裁 平成12(ワ)3913 倉敷紡績思想差別損害賠償事件


H15. 5.14 大阪地裁 平成12(ワ)3913 倉敷紡績思想差別損害賠償事件


平成15年5月14日判決言渡 同日原本受領 裁判所書記官
平成12年第3913号 損害賠償請求事件
口頭弁論終結日 平成14年10月30日

              判       決

 主文
1 被告は,原告Aに対し,2539万7241円及び別紙「原告A認容遅延損害金」記載の金員を支払え。
2 被告は,原告Bに対し,2066万8193円及び別紙「原告B認容遅延損害金」記載の金員を支払え。
3 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
4 訴訟費用中,原告Aに生じた費用の5分の3と被告に生じた費用の10分の3を原告Aの負担とし,原告Bに生じた費用の5分の3と被告に生じた費用の4分の1を原告Bの負担とし,原告らに生じたその余の費用及び被告に生じたその余の費用を被告の負担とする。
5 この判決は,第1項及び第2項に限り,仮に執行することができる。
 事実及び理由
第1 請求
1 被告は,原告Aに対し,6281万7241円及び別紙「原告A遅延損害金」記載の金員を支払え。
2 被告は,原告Bに対し,4955万8193円及び別紙「原告B遅延損害金」記載の金員を支払え。
第2 事案の概要
  本件は,被告の従業員である原告らが,被告に対し,被告は原告らが日本共産党員であることを理由に,原告らを昇進昇給などにおいて違法に差別するとともに,数々の嫌がらせを行ってきたとして,不法行為による損害賠償請求権に基づき,同期同学歴者との差額賃金相当額損害金及び差額一時金・賞与相当額損害金,慰謝料並びに弁護士費用の支払をそれぞれ求めた事案である。
1 前提事実(当事者間に争いのない事実,証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実。証拠及び弁論の全趣旨により認定した事実については,括弧内に証拠等を記載した。)
 当事者
ア 被告
 被告は,明治21年に各種繊維工業品の製造及び販売等を目的として設立された株式会社である。
 被告の資本金は約220億円,従業員数は平成11年9月30日時点で2174名であり,肩書地に本店を置くほか,大阪本社,東京支社,香港営業所,技術研究所(大阪府寝屋川市所在。以下「技研」という。)等の営業所や研究所のほか日本国内に多数の工場を有している。
イ 原告A  
 原告A(以下「原告A」という。)は,昭和18年5月26日に大阪市で生まれ,昭和42年3月に大阪大学工学部応用化学科を卒業し,同年4月に被告に就職して現在に至っている。
 原告Aは,昭和45年に日本共産党(以下「共産党」という。)に入党し,以後現在に至るまでその党員である。
 原告Aの被告における職歴は,以下のとおりである。
a 被告に就職後,昭和42年4月1日付けで教習所見習,同年5月1日付けで技研見習となった。
b 昭和44年4月1日付けで技研補助研究員,昭和45年4月1日付けで技研研究員になった。
 原告Aの担当は,高分子の架橋からみる綿構造の解析,防汚加工剤の開発,親水性高分子・疎水性高分子(主にビニル重合)の加工剤への応用,接触角測定による濡れ挙動の研究,フッ素樹脂合成の検討,光分解性ウレタン樹脂の開発,微生物分解性高分子の開発,縮合重合による特殊高分子(機能性高分子)の開発,新規フッ素及びリン含有高分子等の研究,排煙脱硝装置用触媒の研究等であった。
c 昭和49年,技研とエンジニアリング事業部(以下「エンジ」という。)との兼務となり,業務のほとんどを大阪府枚方市所在のエンジ分室で行うことになった。
d 昭和50年4月,上記兼務が解かれ,技研からエンジに異動となった。
e 昭和50年4月,専門職2級A(S2A)に昇進(なお,本件における「昇進」,「昇格」,「昇等」の意味内容は,後記のとおりである。)したが,その後,昇進することなく,現在も専門職2級Aの地位にある。
f 昭和51年10月1日から昭和53年12月末まで,岡山大学工学部教授C(以下「C教授」という。)の研究室へ研究生として派遣(以下「国内留学」という。)された。原告Aの国内留学中の昭和52年,被告のエンジ縮小に伴い,原告Aの所属は再びエンジから技研となった。
g 昭和53年12月末,昭和54年1月1日付けで技研総務課勤務を命じられ,以後現在に至るまで技研総務課に所属している。
ウ 原告B
 原告B(以下「原告B」という。)は,昭和24年1月1日に生まれ,昭和46年3月に名古屋工業大学繊維高分子工学科を卒業し,同年4月に被告に就職して現在に至っている。
 原告Bは,大学在学中であった昭和45年に共産党に入党し,以後現在に至るまでその党員である。
 原告Bの被告における職歴は,以下のとおりである。
a 被告に就職後,倉敷教習所で教習を受け,昭和46年7月から被告の岡山工場ニット課に実習生として配属され,昭和47年4月1日から同課員として運転担任として勤務するようになった。
b 昭和49年6月1日付けで大阪本社技術サービス部第2課に異動となった。なお,この部署は,その後,組織変更により加工技術部編成課となった。
c 昭和51年4月1日,専門職2級B(S2B)に昇等した。
 原告Bは,その後,昇進することなく,現在も専門職2級Bの地位にある。
d 昭和52年4月16日,浜松駐在員として浜松に異動になった。また,浜松駐在員であった昭和61年6月16日,被告の組織が大きく変わり技術系の部署がなくなったため,原告Bの所属は,浜松駐在員のまま綿合繊製品部ニット課となった。
e 昭和62年7月16日,大阪市所在の株式会社クリエスター(以下「クリエスター」という。)へ出向を命ぜられ,以後,同社において丸首ニットの生産技術・品質管理を主体とした業務を担当し,現在に至っている。
 被告の人事制度の概要
ア 職掌及び等級
 被告における従業員の職掌及び等級は,被告の就業規則上,職務と職務遂行能力に基づき以下のとおり定められている(就業規則12条)。
従業員区分        職  能  等  級
     職   掌 職掌記号   等   級
社 員   管理職 K 1級~3級
 専門職 S 1級~3級
                指導職 C 1級~3級
                技術職 T 1級~4級
                技能職 G 1級~3級
                見習職 M 1級~4級
 なお,各職能等級ごとの一般定義,職掌別諸要素(能力,素質)及び基準職位は,別表1「第1-表 職能制度表(社員)」に記載のとおりである。
 なお,職能等級と基準職位は,原則として別表1のとおりの対応関係にあるが,必ずしもすべての場合にこの対応関係が維持されているわけではない。例えば,能力はあるが職位その他の関係で上位職位に就くことができない場合等については,その等級を現職位に対応する等級より上位の等級に位置づけることができるものとされている。
イ 初任等級
 未経験新採用者の初任等級は,原則として以下のとおりである(就業規則12条の2)。
      職   掌 等  級
中学校卒   見習職 4級
高等学校卒 見習職 3級
短期大学卒 見習職 2級
高等専門学校及び大学卒  見習職 1級
大学院卒 専門職 3級
 原告らは,いずれも大学卒のため,入社時に見習職1級に位置づけられた。
ウ 昇進(昇格又は昇等)
 昇格とは上位職掌に変更することであり,昇等とは同一職掌内において等級が上位に進むことである。昇格又は昇等のことを昇進という(就業規則12条の3第1項)。
 昇格,昇等が行われる場合については,就業規則12条の4に総括的な定めがあるが,より具体的には職能制度運用基準書に以下のような定めがある(乙3)。
 昇格の原則
 昇格は,原則として上位の職掌の職位に新たに任命された場合のほか,次の条件を満たした場合に被告が査定して行う。
a 別表2「第1-表 管理職社員(管理系列)の職能等級判定基準」,別表2「第1-表 管理職社員(専門系列)の職能等級判定基準」及び別表3「第1-表 専門職社員の職能等級判定基準」(以下,これらを合わせて「別表職能表」という。)に示す上位職掌の基準に適合すること
b 所定の教育訓練を終了し,その結果(試験を含む。)が所定の水準以上に達していること
c 現業における人事考課が所定の水準以上に達していること
d 所定の滞留必要年数に達していること
e 別に定める昇格試験(面接を含む。)に合格すること
 昇等の原則
 昇等は,原則として同一職掌内の上位の職位に新たに任命された場合のほか,次の条件を満たした場合に被告が査定して行う。
a 別表職能表に示す上位等級の基準に適合すること
b 所定の教育訓練を終了し,その結果(試験を含む。)が所定の水準以上に達していること
c 現職における人事考課が所定の水準以上に達していること
d 所定の滞留必要年数に達していること
 昇進の基準
 昇進の基準については,職能制度運用基準書に定めがあり,具体的には別表4「第2-表 社員昇進基準表」及び別表5「第2-表 社員昇進基準表」(以下,これらを合わせて「別表基準表」という。)のとおりである。これによると,原告らのように入社時に見習職1級に位置づけられた場合,設定されている昇進の型は「M1→S3」である。なお,同表記載の最低滞留必要年数とは,昇進の場合に考慮されるべき条件の一つであり,昇進の条件としては,同表の必要とする基準に適合し,加えて他の条件を満たし,さらに滞留年数に達している者でなければならない。
 昇進に際しての評定要素は,以下のとおりである。
a 経験的要素
 現在の職能等級における一定の滞留必要年数を経ていること
b 能力的要素
 人事考課上の要件を満たしていること
 所定の教育訓練を終了し,かつ合格すること(昇等のときは認定)
 昇進に適する知識,技能を有すること
c 勤怠的要素
 昇進に値する勤怠であること
d 身体的要素
 健康状態で問題のないこと
 昇進の決定
 別表基準表の昇進条件の基準に従うとともに,職能等級ごとに設定される標準人員構成(人員枠)を勘案し,昇進を決定することとされている。
大卒者に関する昇進運用の実際は,次のとおりである。すなわち,大卒者は,上記のとおり,まず入社時に見習職1級に位置づけられる。入社1年目の者に対しては,人事考課は行わず,育成のための観察のみを行うこととされている。次に,入社2年目の者については,職能等級は1年目と同様,見習職1級に据え置かれる。これは,別表4が定めているように「M1→S3」の昇進についてはその最低滞留必要年数が2年とされているためである。なお,入社2年目の者については,同一職能等級(見習職1級)の者だけを考課対象群とした人事考課を実施する。入社3年で,通常は専門職3級(S3)に昇格する。
エ 人事考課
 人事考課の概要は,以下のとおりである。
 人事考課の内容
a 業績評定
 目標管理の内容を中心に,部下の業績達成の程度と全体業績に対する貢献度を総合して評定する(日常業務での効率的な運営,処理も含む。)。
b 能力評定
 別表職能表に従って評定する。
 人事考課の時期
  管理職,専門職社員に対する人事考課は,毎年次の時期に実施する。
  実施時点      期   間         
9月30日 当年4月1日から当年9月30日まで
3月31日 前年10月1日から当年3月31日まで 
 被評定者
 考課実施時点に在籍する管理,専門職社員全員とする。ただし,部(室)長,工場長,支社長,営業所長及び技研所長は除く。
 評定者
a 管理職社員
 第一次評定 原則として次長又は副工場長が所管部門について第一次評定を行う。
 第二次評定 部(室)長,工場長,支社長又は技研所長が行う。
b 専門職社員
 第一次評定 所属課長(代理を含む。)が行う。
 第二次評定 部(室)長,工場長,支社長又は技研所長が行う。
 なお,次長又は副工場長は,所管部門について,所属課長の次に評定する。
 評定
 第二次評定者は,第一次評定者の評定を基礎として必要に応じてその部,事業所内の調整を行って評定する。この場合,必要があれば調整会議を開いて調整する。
 人事考課の使用目的
 人事考課は,次の目的に使用する。
a 業績評定 賞与,昇給,昇進に利用する。
b 能力評定 昇給,昇進に利用する。
オ 賃金体系
 被告の賃金体系は以下のとおりである(乙2,6,弁論の全趣旨)。
 賃金
基本賃金
基本外賃金  時間外労働手当
休日労働手当
深夜労働手当
役職手当
医務手当
研究手当
特殊勤務手当
日宿直手当
付加賃金   家族手当
通勤手当
地域手当
本社・支社手当
住宅手当
交替番手当
非一斉休日手当
単身赴任手当
 基本賃金
 大卒者についての初任給基本賃金は,被告が毎年4月度に定める。
 基本賃金についての賃上げは,昇進による昇級額及び毎年の労使交渉に基づいて妥結される「賃上げ配分額」及び「査定による加算額」を前年の基本賃金に加算することによってされる。なお,「賃上げ配分額」は,例年職能等級ごとに定められ,職掌及び等級が上位の者ほどその配分額が大きくなっている。また,「査定による加算額」は,各職掌についてAからEまでの査定結果ごとに加算額が定められており,査定結果が良好であるほどその額も高くなっている。しかし,必ずしも職掌が上位の者ほどその額が高額となっているわけではない。なお,例年,査定結果Eの者についての加算額は,職掌を問わず0円と定められている。
 一時金及び賞与
 被告においては,半期(冬及び夏)に一度,一時金及び賞与を支給している。
 一時金及び賞与は,まず労使交渉に基づいてその総支給額を決定し,決定された総支給額のうちの60パーセントを一時金として,残りの40パーセントを賞与として配分することになっている。
 支払日等
  賃金の締切日は毎月20日,支払日は毎月25日である。一時金及び賞与の支払日は,6月15日と12月15日である。      
2 原告らの主張
 被告の労務政策の特徴
ア 被告は,左翼思想すなわち共産党員ないしその同調者による組合活動や共産党に指導された労働運動を急進的,過激として一貫して嫌悪し,排除し続けてきた。一方で,被告は,労使協調の組合の結成を指導し,これを穏健,民主的と肯定的に評価してその勢力拡張を援助し続けた。その結果,被告は,1960年代から,労使協調を旨とする,被告の従業員をもって組織する全繊同盟倉敷紡績労働組合(以下「倉紡労組」という。)との間で,労働協約を締結して完全なユニオンショップ制を採用し,労働組合から除名された者又は労働組合に加入しない者を解雇することとしている。
イ 倉紡労組は,その上部団体である「同盟」(全日本労働総同盟),「全繊同盟」(全国繊維産業労働組合同盟)の運動方針に従い,倉紡労組の政治活動については,民社党一党支持を機関決定し,衆・参・地方議員選挙に当たっては民社党候補者を支持し当選させることを運動方針としている。同盟は,労働組合における特定政党支持義務づけに反対して政党支持の自由を要求することを反共的立場からの組織攪乱者として敵視する立場を打ち出している。全繊同盟は,例えば,昭和49年開催の全繊同盟第29回定期大会に提案された「運動方針」の中で,民社党を積極的に支持する旨を掲げていた。
 倉紡労組は,このような上部団体の方針を受け,昭和49年3月15日開催の第28回定期大会において,議案の中に民社党強化のため入党促進,同盟,全繊同盟の行う政治活動にも積極的に参加していくことなどを挙げ,同大会においては,議案として「参議院選挙必勝決議」についても挙げていた。
ウ 被告及び倉紡労組は,参議院選挙をはじめ,地方選挙においても繊維産業の代表あるいは同盟組織内候補として民社党の候補者を支持し,被告も倉紡労組の要請により従業員の勤務時間中に民社党候補者の当選のために支持活動を行ういわゆる企業ぐるみ選挙活動を行ってきた。
 被告による原告らに対する差別的処遇
ア 被告による原告Aに対する差別的処遇について
 原告Aは,昭和45年に共産党に入党し,それ以降現在に至るまで,職場の労働条件を改善・向上させる活動に積極的に取り組むとともに,倉紡労組の支部委員,執行委員,支部書記長などの役員選挙にも何度も立候補するなどの活動を行ってきた。
 ところが,被告は,原告Aが共産党員として諸活動を行うことを敵視し,徹底した差別攻撃を加え,原告Aに対して差別的処遇を行った。
 その経緯は,以下のとおりである。
 被告入社後岡山大学工学部に国内留学を命ぜられるまで
a 原告Aは,昭和42年4月に被告に入社した。原告Aは,大阪大学在学中の昭和41年秋に被告への入社が内定したが,就職内定時から技研配属の研究者となることが決まっていた。原告Aは,入社後,他の技術系の従業員の工場実習とは異なり,わずか1か月間の研修後,技研で3か月間の実習を経て,同年8月以降は技研の研究業務に従事した。また,被告は,労働契約上,技研の研究部門の業務に従事する者の労働時間,休憩時間,就業,配置転換及び休日については別に定めるとしており,原告Aと被告との労働契約及び労働条件は,一般工場勤務の労働者とは区別される技研研究員としての業務に従事することであり,被告が原告Aの配置転換を一般の工場勤務の労働者に対する配置転換のように一方的に強行することはもともとできな
いものであった。
b 原告Aが技研において担当し参加した研究テーマは,「高分子の架橋からみる綿構造の解析」や「防染加工剤の開発」など10項目に及ぶものであり,これらの研究は,いずれも原告Aを含め,複数の研究員がチームを組み,補助員等の補助を受けながら,研究を進めてきた。原告Aが参加し担当した研究業務の成果として,出願,取得した特許は,「窒素酸化物の除去方法」など昭和48年出願,昭和50年取得公開の特許2件,「窒素酸化物の還元除去方法」など昭和50年出願,52年取得公開の特許3件,「排ガス中の窒素酸化物除去方法」など昭和51年出願,52年取得公開の特許など合計6件に及ぶ。この間,原告Aらの研究成果の一つである「排煙脱硝装置開発」は,被告の技術を当時の開発の先頭に位置づけるものであった。
c 原告Aは,昭和45年,倉紡労組の支部委員(任期2年)に職場推薦により立候補して当選した。そのころ原告Aが所属していた技研では,通勤バス,作業着の洗濯代等の職場内の問題について,技研交渉ができる職場団体交渉権が確立されるようになった。また,技研には休日,勤務時間の問題についての特別委員会も設置された。
  原告Aは,昭和47年,倉紡労組の執行委員(任期2年,大阪支部全体で10名)に立候補した。このときは技研からは原告Aと原告Aと同じく共産党員であるD(以下「D」という。)の2名が立候補し,倉紡労組執行部による「Aを落とせ」との攻撃にもかかわらず,原告Aは投票総数476票のうち257票を獲得したが,惜しくも落選した。また,原告Aは,昭和49年,倉紡労組の大阪支部書記長に立候補し,投票総数492票のうち215票を獲得したが落選した。
d 原告Aは,昭和49年ころ(原告Aが技研とエンジの兼務となる少し前ころ),当時原告Aの上司であったE(以下「E」という。)から,原告Aは社長まで知っている有名人である,これ以上かばえないので技研にもエンジにも必要な人材になってほしいと言われた。
 また,原告Aは,上記のように,他の研究員と共同で研究業務に従事してきたにもかかわらず,被告は,原告Aに対し,昭和49年8月15日付けで技研とエンジの兼務を命じ,従来大阪府寝屋川市所在の技研で行ってきた研究業務を大阪府枚方市所在のエンジ分室で行うように指示した。これは,被告が,原告Aの技研職場会の活動を事実上不可能にするためであった。さらに,被告は,昭和50年4月,技研において原告Aを含む研究員の共同研究が続けられ,同年中に3件,昭和51年中に1件の特許申請がされるという研究業務の継続中にもかかわらず,原告Aの技研とエンジの兼務を解き,技研からエンジへの異動を発令し,原告Aを技研職場から排除した。また,原告Aがエンジ兼務を解かれ枚方分室で勤務するようになってから技研を
訪れた際に,Eは,原告Aに対し,あまり技研に来るな,所長は原告Aの顔を見るのも嫌がっていると述べたことがあった。
e 原告Aは,昭和50年,被告の取締役事業部長であったF(以下「F」という。)から,「君は会社の中では先鋭だと言われている。アカだと言う者もいるが,わしは違うと言っておいた。」,「残業をしないそうだが,会社の外で何かしていると言われるぞ。残業してちゃんとつければよい。収入にもなることだし。」,「君はゴルフをやらないのか。一度遊びに来なさい。」という警告と勧誘を受けた。
 上記と同じころ,倉紡労組大阪支部では,原告ら共産党員とその支持者の影響力が相当程度あり,例えば,大阪市長選で倉紡労組執行部が特定の候補者の支持決議を提案したにもかかわらず否決されたり,同様に大阪府知事選でも執行部提案の特定候補の支持決定が保留になったりしたことがあった。そのため,技研は,倉紡労組執行部から,「技研には異分子がいる。」との攻撃を受けることになった。
 さらに,そのころ,倉紡労組執行部は倉紡労組大阪支部の大会で,民社党一党支持決議の提案を撤回せざるを得なくなった。このことは,労使一体となって従業員に民社党支持を押しつけていた被告に大きな衝撃を与えた。
f 昭和51年5月上旬ころ,原告ら共産党員やその支持者と目される者の自宅あるいは寮に「○○地区委員会の××です。」(○○部分及び××部分は不明)と共産党をかたった不審電話が軒並みにあった。これが,原告ら被告内の共産党員ではないかと目される者に対し,党員か否かを識別することを目的としたにせ電話であることは明らかであった。
g 被告は,上記にせ電話から間もない昭和51年6月,原告Aと技研の同僚で共産党員であったDに対し,大阪大学への国内留学を命じた。
  その直後,被告は,原告Aに対し,同年10月1日から岡山大学工学部C研究室に国内留学することを命じた。いずれの者に対する国内留学も,技術研究上の必要性もこれまでの研究との継続性もないもので,共産党員である原告AやDを職場から排除するねらいのものであった。技研の研究員に対する国内留学は,それまで前例がなかった。
 そのため,原告Aは,同年8月,倉紡労組大阪支部長G(以下「G支部長」という。)を通じて,被告に対し,国内留学の期間は1年,最大限1年6か月とすること,国内留学終了時は大気開発部員触媒担当に復帰するなどの諸条件を文書で出させた上,被告の業務命令に従うこととした。もっとも,国内留学に当たっての被告との取決めは,原告Aの労働条件,身分をきわめて不安定にするものであった。
 国内留学後の経緯
a 原告Aの国内留学は,当初最大限で1年6か月とされていたにもかかわらず,被告は,昭和53年2月,原告Aに対し,国内留学を1年延長することを通告した。ちなみに,被告は,当時大阪大学に国内留学中のDに対しても,国内留学の期間を延長した。原告Aは,期間延長は当初の条件に反することから,倉紡労組の苦情処理委員会宛に,再延長のないことの確認と単身赴任手当の増額を求める申入書を提出した上で,やむなく国内留学の期間の1年延長に応じた。原告Aの国内留学期間の1年延長の表向きの理由は,今後とも触媒関係の技術の習得向上が技研として重要な1項目であるとのことであった。しかし,そのころ,原告Aは,Eから,国内留学の1年延長の本当の理由は,今原告Aを技研に戻すとまた倉紡労組役員選挙に立候補す
るからであると言われた。
b 国内留学の期間が被告により延長されたにもかかわらず,その期限(昭和54年3月末)が到来する前である昭和53年12月,被告は,原告Aに対し,国内留学を終了させて技研で勤務することを命じた。原告Aは,国内留学当初の条件のとおり当然技研の研究員に復帰するものと思っていたところ,被告は,同月29日,原告に対し,昭和54年1月1日付けで技研総務課員を命じた。なお,上記配転命令は,昭和53年12月28日に電報で翌日技研に出社するよう求め,翌日,技研所長が「発令通知」と題する書面を示すというもので,発令の時期,電報での呼出し,「発令通知」という書面の呈示など,かつてないきわめて異常な方法で行われた。また,被告において,技術開発や研究業務を行う専門家である研究員が,研究員から依頼
された実験器具・装置,測定試験片等を製作するなど研究業務を行う上で必要な補助や研究条件の整備を行う総務課員となることは,それまで前例のないことであった。
c 被告は,昭和54年1月ころから,Dに対し,以下のような共産党脱党工作を執拗に始めた。当時Dが作成したメモ(以下「Dメモ」という。)には,以下のような記載がある。
 Dは,昭和54年1月25日,総務課のH課長代理から,「君やA君が共産党員であることは分かっている。A君はC先生から能力がないと言われ,原動・工作の仕事をしている。」,「要するに君の考え方を改めてもらわねば,君はまともな仕事に就けないぞ。」,「要するに共産党員であることを辞めてほしいと言っているのだ。」,「資本主義体制下では,特に紡績は資本主義の牽引車であったし,労務管理は党員に厳しい。したがって,共産党員を辞めないと仕事上葬り去られる。」と言われた。
 Dは,昭和54年2月13日,H課長代理から,「会社としては組織として共産党員に対して激しくやろうとしている。」,「君は党を辞めない限り研究の仕事はできない。」,「所長付で特定のグループに入ることになる。」と言われた。
 Dは,昭和54年3月8日,H課長代理から,「会社としては,君が共産党員を辞めるか辞めないかで,仕事を干すか干さないかを決めるとの結論を出した。」,「君に何の役にも立たない仕事をこれからずっとやらせるということは,会社にとって大きな損失であり,・・・・何とか君を生かしたいと考えている。私としては,3月31日,つまり4月1日に君が帰るぎりぎりまで君に共産党を辞める説得をする。」,「原動はもう一杯や。何をさせるか,これがまた大問題だ。」,「B君を知っているか。」,「彼は共産党員であり,今は岐阜に隔離してある。」と言われた。
 Dは,昭和54年3月27日,H課長代理から,「このままでは多くの人が君を白い目で見る。多くの後輩が君を追い越していくことになる。君が研究者として立派な仕事をしたくても,それだけの地位を与えられなければできないはずだ。」と言われた。
 Dは,昭和54年6月18日,H課長代理から,「党員であって会社でよい仕事をもらおうというのは無理だ。」,「君も党を辞めず仕事をしないのならS3に格下げしてもらったらどうか。」と言われた。
 Dは,昭和55年2月19日,H課長代理から,「ロイアリティを示すということは,党を辞めることだ。」,「これを蹴るなら君は仕事ができないわけで,おそらく四,五年もすれば見向きもされないだろう。したがって,転職することを考えるべきだ。」と言われた。
d 原告Aが,国内留学終了後,総務課員として配属後に担当させられた業務は,大学工学部卒で被告の技研研究員であった者が担当することは通常あり得ない「原動・工作」(電気・配線工事,社内で作る実験器具・装置の製作)の補助であった。具体的には,普段は「工作補助」として研究員から依頼された実験器具・装置,測定試験片を製作することが多く,そのために施盤,丸のこ盤等の工作機械を使用したり,電気溶接,ガス溶断,ハンダ付け等の技能が必要であった。それ以外にも,研究所から出るごみを可燃物,ガラス製品,金属片等に分別して焼却炉やそれぞれの廃棄場所に車で運ぶごみ捨て作業が平均すると週1回(1回につき2往復)と,ごみ処理袋を平均2週間に1回樹脂工場に取りに行く仕事もあった。また,環境整備と称し
て,芝刈り,植木の剪定,ペンキ塗り,側溝の掃除,蛍光灯の取替え,電気工事の手伝い,休日出勤して変電所の碍子を一つずつ磨く仕事等の雑用もさせられた。ことに,危険物倉庫の中で数百以上の開封済試薬瓶を類別,処理させたり,研究所全館の廊下や階段の蛍光灯とそのかさのほこり落としや掃除をさせたり,真夏の炎天下に原告Aひとりだけに芝刈りをさせたりするなど,明らかに原告Aに精神的苦痛を与えることを目的とする嫌がらせも少なからずあった。このような通常総務課員でさえ担当しないような,原告Aが担当した業務の内容は,研究員である原告Aの経歴,業績,技能に照らし,きわめて孤立した屈辱的なもので,過酷な単純労働を強要し,精神的,肉体的に打撃を与えるものであった。
 しかも,原告Aの,昭和54年1月に技研総務課員を命じられて以降の執務場所は,「実験工場の工務室」であって,多くの課員から隔離された場所であり,さらに昭和59年5月以降,原告は,同工場の便所の真上にあたる,臭気が漂う2階の物置部屋(隔離部屋)に移動させられた。
 このように,被告は,原告Aの技研の復帰については,国内留学以前の技研職場での原告Aの正当な組合活動の復活を抑えるため,原告Aを技研の従業員から,執務場所でも業務内容でも隔離し,孤立させ,また,共産党員である限り徹底差別人事,差別業務を押しつけるという,見せしめのため人権侵害を行った。
e しかし,原告Aは,被告の嫌がらせに屈することなく,以下のように各種資格を取得したり,技能を習得するなどの努力を怠らなかった。
 甲種危険物取扱者(昭和54年 大阪府)
 第1種放射線取扱主任者(昭和55年 科学技術庁)
 エックス線作業主任者(昭和57年 京都労働基準局)
 ガス溶接作業主任者(昭和58年 兵庫労働基準局)
 高圧ガス製造保安責任者(甲種化学)(平成9年 通商産業局)
 フォークリフト運転(昭和55年 大阪車両教習所)
 アーク溶接特別教育(昭和57年 守口労働基準協会)
 ガス溶接技能講習(平成3年 関西技能開発センター)
f 原告Aは,昭和59年4月,被告の自己申告制度に基づく申告表を提出した。その際,「目標カード」の上司評価には「貴君の所見どおりだと思います。頑張って下さい。」と記入されていたにもかかわらず,なぜか総務課長がその用紙をすぐに戻させたことがあった。後日,原告Aは,元同僚から,そのときの上司(当時主任研究員であったI。原告は,当時,この主任研究員のプロジェクトの一員として工作部門の仕事を担当していた。直属の上司である上記総務課長は別人である。)が「A君のことは上に何度も言ったが,彼は共産党なのでどうにもならなかった。」と述べていたと聞いた。
 原告Aは,平成元年10月ころ,「目標カード」に研究業務に就くことを求める旨記載したが,何ら改善はされなかった。
  さらに,原告Aは,平成2年4月20日,研究発表会後の懇親会で,技研のJ所長に対し,草抜きやペンキ塗り以外のまともな仕事を与えるよう,差別的処遇の是正を求めたが,それ以後も改善されなかった。
 原告Aは,平成3年初めころ,J所長から,「君はE主任に言われて入ったらしいな。今わしが何とかしないと,このままずっと放っておかれるぞ。それには会社でビラをまくのをやめてもらわないと駄目だ。そうすれば研究の仕事もさせてやる。」と言われた。これに対して,原告Aは,「この部屋は臭気も上がってくるので,本館に戻してほしい。まともな仕事とビラまきは別だ。」と抗議した。
g 原告Aは,上記から間もない平成3年4月,隔離部屋から本館のJ所長の前の机に移動させられ,仕事も新聞の切り抜き,翻訳,所長の会議での報告の下書きをワープロで清書することに変わった。なお,そのとき,総務課Kは,「あそこは人の住むところではないわな。」と述べた。また,原告Aは,その1か月後に1週間程度ではあるが,無機建材関係の研究の補助者として他の研究員と一緒に仕事をするようになった。
 上記と同じころ,原告Aは,J所長から,「L君(L。羊毛工場長で原告Aと同期入社)もAが共産党に入っていると言ったら,まさかと驚いていた。一度M君(M。本社人事課長で原告と同期入社)と会ってみないか。自分が機会を作ってやるが。」と誘われたが,これを断った。
h 原告Aは,平成4年5月,被告労務部に環境問題に関する報告の論文を投稿したが,人事部は,同年7月にこれを原告Aに返却した。
i 原告Aは,平成4年9月,本館の所長の前の席から,1階の元X線の部屋であった,窓のない「lS3」の部屋にひとりだけ移動させられた。
  さらに,平成6年6月ころ,原告Aの机は,上記部屋に天井まで届くパーテーション(ついたて)によって隔離されたわずか1.5坪くらいのスペースに置かれることになった。
 原告Aは,平成6年の一時金支給日に,総務課長N(以下「N課長」という。)に対し,新たについたてを設置して隔離部屋を作ったこと及びまともな仕事を与えないことを抗議した。
 なお,そのころ,原告Aだけを排除して,総務課員により月1回程度誕生会と称する昼食会が催されていた。
j 原告Aは,平成7年,仕事上必要な本の購入依頼の正規伝票を出していたが,なかなか本がこないのでN課長に問い合わせると,伝票は紛失していてないということであった。原告Aは再度伝票を出したが,被告は未だに購入しない。
 また,そのころ,原告Aは,植木の剪定や芝刈り,「原動」の手伝い等の仕事をさせられることが多くなった。
k 原告Aが平成8年4月に慶弔休暇についてN課長に聞きに行った際,原告Aとの話の途中,同課長が急に声を荒らげて怒鳴り出したことがあった。
l 原告Aは,平成8年6月,被告に提出した「目標カード」を被告から上司の評価欄白紙のままで返された。
m 平成9年1月,総務課長がN課長からOに替わったが,N前課長の送別会に原告Aだけが呼ばれないという嫌がらせを受けた。なお,O新課長赴任当時,原告Aが夕方ころ会議室の灰皿のチェックをするために応接室に入って行ったところ,何を思ったのか同課長があわてて飛んできて,何事ですかと尋ねるという異常な出来事があった。
n 原告Aは,平成9年4月,資格の更新に関して課長との面談の際,それまでの同原告に対する処遇の改善,とりわけ隔離部屋をやめるように求めたが,その後も是正されなかった。
  原告Aは,平成10年4月1日,新任の総務課長P(以下「P課長」という。)に対し,隔離部屋をやめるよう申し入れた。このとき,原告Aは,自分に対する処遇の理由について質問したが,同課長は,「理由はないんではないですか。」と答えた。
 その後,原告Aは,組合対話集会でも隔離部屋をやめさせるよう発言した。
  原告Aは,同年5月,P課長に対し,再度隔離部屋をやめるように申し入れ,この件について被告に文書を提出することも考えている旨を告げた。
  原告Aは,同年6月,それまでも課長が替わるたびに何度も隔離部屋をやめるよう申し入れていたにもかかわらず,全く是正されなかったので,直接,被告代表取締役社長であるQ(以下「Q社長」という。)に対し,隔離部屋をやめることを求める内容の手紙を出した。
 その結果,原告Aは,同年7月,ようやく上記部屋から解放された。
o 原告Aは,平成10年10月,Q社長に対し,仕事上の差別や昇給昇進上の差別の是正を求める内容の手紙を出したが,被告からは何の回答もなかった。
  原告Aは,平成11年1月12日付けで,再度Q社長宛に仕事上及び昇給昇進上の差別是正を求める内容の手紙を出した。これに対して,同月18日付けで被告の人事課から人事考課が昇進の条件を満たしていないとの簡単な回答があったが,具体的な考課結果やその理由の説明等はなかった。
p 原告Aは,平成11年6月,P課長に対し,自分に対する被告の査定内容について尋ねたが,同課長は「分からん。」と答えただけであった。
q 原告Aは,総務課への異動後,以下のような活動も行っていた。
 昭和55年7月,倉紡労組大阪支部書記長に立候補し,初めて被告本社前及び社宅で立候補に当たっての抱負を記載したビラを配布し,これを郵送した。これに対し,被告は,就業規則違反の通告及び掲示をしたが,原告Aは,倉紡労組に申し入れ,被告にこれを撤回させた。
 昭和63年,倉紡労組大阪支部の執行委員に立候補し,以後2年ごとに行われる役員選挙に毎回立候補し,選挙管理委員会にその抱負を認めさせた。
 平成元年2月23日,北大阪労働基準監督署に研究員の労働条件(休日,深夜労働,時間外労働に対する割増賃金の未払)と有給休暇請求時の理由の記載について申告した。また,同年3月9日に技研門前で,同月14日には被告本社門前でそれぞれビラ配布活動を行った。その結果,研究員についても統一労働条件となるとともに,休日の研修に対する未払賃金が支払われ,有給休暇請求時に理由を記載しなくてよいことになった。このとき,原告Aは,同年6月1日に総務課長R(以下「R課長」という。)に呼び出され,就業中の調査活動だと文句を言われるとともに,外部の者にはビラまきのとき敷地内に入らないように言ってくれと言われるなどの妨害を受けた。
 平成2年1月10日,共産党のSらと技研門前でビラ配布を行った。
 平成4年6月12日,職場の労働条件,女性の早朝お茶くみ問題等について北大阪労働基準監督署に2度目の申告をした。
 平成4年9月ころ,倉紡労組大阪支部の支部長に立候補した。
 平成8年10月,倉紡労組大阪支部の副支部長に立候補した。このとき,N課長は,「Aを1票にしなければ自分は飛ばされる。」と発言し,また,T所長は管理職の会議で「課長はがんばって研究所の票は減らしたんだが,本社の票が伸びたので,結果的には前回と変わらないことになった。」と発言した。
 平成10年10月,倉紡労組大阪支部書記長に立候補した。
 平成11年2月,被告の退職強要による人員削減に反撃する内容のビラなどを技研,独身寮,本社などで配布した。
 以上のとおり,被告は,遅くとも昭和51年5月ころから,原告Aを共産党員と認識し,その思想信条を嫌悪するゆえに,同年10月1日から昭和53年12月まで岡山大学に国内留学させることによって技研研究員の職場から排除し,昭和54年1月から現在に至るまで研究員に復帰させず,しかも蛍光灯の取替え,植木の剪定,草抜き,芝刈り,ペンキ塗り等の雑用をさせたり,せいぜい新聞の切り抜き等の補助的な仕事しか与えていない。また,被告は,原告Aに対し,意図的にまともな仕事を与えないにもかかわらず,業績が上がっていないという口実のもとに,昭和50年4月に原告Aを専門職2級A(S2A)に昇進させて以降現在に至るまで全く昇進させないという甚だしい差別を行っている。
イ 被告による原告Bに対する差別的処遇について
 原告Bは,大学在学中の昭和45年に共産党に入党し,大学においては大学祭実行委員会,学生自治会ストライキなど大学民主化の活動を経験し,被告入社後は,職場の要求を反映するために労働組合の支部大会などで発言したり,繊維関係で働く他の職場の労働者とともに労働者の要求実現と産業政策の学習・宣伝活動を行ってきた。ここ数年来は,センイ労働者・労働組合連絡会の運営員で機関誌の編集を担当している。
 ところが,被告は,原告Bが共産党員として諸活動をすることを敵視し,徹底した差別攻撃を加え,原告Bに対して差別的処遇を行った。
 その経緯は,以下のとおりである。
 岡山工場勤務時代
a 原告Bは,昭和46年4月,大卒技術系労働者として被告に入社し,倉敷教習所での3か月の教習を経て,岡山工場ニット課の実習生となり,昭和47年4月,岡山工場ニット課に同課員として運転担任を任され,昭和48年4月1日からは専門職3級に昇格した。原告Bがニット課に配属されたときは,同課では被告として初めてニット丸編機を導入することになり,原告Bは,見習職ではあるが,技術系社員として,新しい編機の設置作業=線引きに関与し,昭和47年4月までに丸編機60台が岡山工場に設置された。原告Bは,運転担任として,女子工員のグループリーダー3人と班長の上に立って,丸編機60台を運転する女子工員約23人の配置や交替その他の運転管理全般を行った。
 原告Bは,被告の利益のために熱心に働き,上司もこれを評価しており,定期的に作成される目標カードにおいても,上司から平均して70ないし90パーセントの達成率という高い評価を受けていた。
 また,原告Bは,岡山工場勤務時代,被告の社内教育書籍「製造概論ニット」(B5サイズ110ページ)中の丸編部門の項を工場内の写真,ニット編成に関するイラスト等を活用して執筆した。同書は,上司の校正を受けたもののほとんど手を加えられない状態で製本された。その他,原告Bは,岡山工場勤務時代,ニット用原糸の編成測定器の改良(アナログ式をデジタル式にする。)や,風綿除去装置(リントブロアー)の実用試験など合理化業務を行い,実績を上げた。
 以上のように,原告Bは,岡山工場における丸編ニット製造担当の中心的な技術者というべき存在であった。
 被告においては,このような担当者は,本人の希望がある場合はともかく,通常は10年間は同一業務に従事するものであった。
b 原告Bは,昭和48年5月6日,岡山工場の倉紡労組支部大会において,民社党一党支持を方針とする組合執行部を批判する発言を行った。すなわち,原告Bは,組合執行部が翌年に行われる予定であった参議院選挙において民社党の乙を推薦する旨の方針を提案したことに対し,選挙での政党支持は自由であるべきであるから参議院選挙に誰を推薦するかは決めないほうがよい旨の発言をしたのであった。これに対して,組合執行部は,「今頃このような機会を捉えて共産党は・・・政党支持の自由を言ってくる・・・がこれを行ったら組合は混乱する。」と批判し,質問者である原告Bのことを言っているのではないと断りをしながら,事実上原告Bが共産党員として発言を行ったことを印象づけた上,後に多数決で執行部方針を可決した。
 翌7日,原告Bは,直属の上司であったU課長代理より別室に呼び出され,同人から,「そういう発言をするならこれから相当な覚悟がいるよ。実はニットと加工糸の担当者は教育し直さなくてはいけないと言われた。こういうことを言う人は初めてだから,労働組合は相当ショックを受けているようだ。だから相当の覚悟をしていかないと組織を乱すものとしてみられるから。」などと言われた。また,話の中で同人の個人的意見として,「会社の新入社員教育でも民青や共産党は悪いと教育しているが,これもおかしい。」との発言もあった。その後もU課長代理から「組合批判や組織の方針に関することは考えていても話さないこと」というアドバイスを受けた。
 また,同年6月には岡山工場の労務担当者である勤労課員のVから「君のことは本社の労務や人事には話していない。」,「他の者を洗脳するな。」などと話しかけられ,また,「君は赤旗を寮で読んでいるようだがどこで手に入れるのか。」などと話しかけてきた。
 このころ,原告Bは,岡山工場の若年者が集まってつくった岡山工場壁新聞製作グループに参加したり,労演の主催する演劇に工場内の寮で生活する労働者と誘い合って行ったり(課長からは誘い合って行くなと言われていた。),赤旗の普及や選挙での共産党の応援,クラレの争議支援などを行っていた。
c 原告Bは,昭和49年5月12日の倉紡労組岡山支部大会でも民社党県会議員の指示方針に対し,政党支持の自由を理由に反対表明を行った。
 被告は,上記岡山支部大会のわずか3日後である同月15日,原告Bに対し,大阪本社技術サービス第2課への転勤を内示した。
 原告Bは,同年6月1日付けで,大阪本社技術サービス第2課に配転されたが,この配転は,唐突なもので,業務上全く必要性がなく,本人の意向を全く無視したものであった。これは,原告Bをその思想信条を理由に岡山工場から排除するために強行されたものであった。
 大阪本社勤務時代
     a 原告Bは,大阪本社に転勤後,技術サービス部技術サービス第2課(編成課)に所属し,交編ジャージィの品質管理や長繊維交編ジャージィの緯段対策などの専門技術者としての業務に従事して多くの成果を上げ,高い評価を得た。
b 原告Bは,昭和49年,大阪へ転勤後,技術サービス部のx(職場の同僚で前任の組合支部委員)から,倉紡労組大阪支部の支部委員にならないかと打診され,職場での推薦を集めてもらい,支部委員に推薦され,支部委員立候補の届出をした。ところが,その後選挙が実施される前になって,当時の上司であった編成課長W(以下「W課長」という。)が原告Bを喫茶店に呼び出し,支部委員になることを辞退するよう強く説得した。結局,原告Bは,転勤後間もなくであり,仕事をいろいろ教えてもらう必要があったので,辞退することを承諾した。なお,原告Bは,この当時,共産党の繊維関連の支部長を務めたり,繊維関連会社へのビラ配布,各種選挙活動等を行っていた。
 原告Bの支部委員辞退後,原告Bと同室のXが支部委員となり,次年度は隣席のYが支部委員となり,これらいわば会社側推薦支部委員は,原告Bに対し,原告Bが倉紡労組に関して質問してもまともに応えないという態度をとったため,職場は異常な雰囲気になった。
 その後,W課長は,原告Bが倉紡労組のことについて他の支部委員等に質問したり,「赤旗」を寮に住む従業員に勧めたりなどしていることについて,「もう人事から君をかばいきれなくなった。君も立場を考えて行動しないと○○さんのようになるぞ。寮でのこともいろいろ聞いている。」(○○について誰のことを言ったのかは現在覚えていない。)などと忠告した。
 また,原告Bが結婚する際,W課長に出席を依頼し,W課長はいったんは出席を承諾していたにもかかわらず,「やはり君のような考えを持った人の結婚式には出たくない。出席すると言ったが断る。」と言ってきた。
c その後の昭和51年5月上旬ころ,不審者から京都市の原告Bの自宅に電話があった。共産党伏見地区委員会の田中と名乗る男からの「赤旗を増やしてほしい。」との依頼の電話であったが,そのような電話があること自体おかしいし,電話を切った後,共産党伏見地区委員会に確かめたところ,やはり田中と言う男は所属していなかった。また,同じ被告に勤めている共産党員である原告AやDに対しても同時期に同様の不審電話がかかっていた。
 浜松駐在時代
a 原告Bは,昭和52年4月,外注管理(生産地での生地のチェック)のため浜松駐在を命ぜられた。旧来,浜松でのニット関係での編成課の駐在はなく,原告Bの駐在が初めてであった。上記命令がW課長からあった際,原告Bは,産元商社である協栄株式会社(以下「協栄」という。)の担当者も大阪へ定期的に出てくるし,編成課からも浜松へ定期的に出張しているのであるから必要な場合は長期出張という方法で足りるのではないかと進言したが,業務命令ということで上記配転は強行された。上記配転は,業務上の必要性のない,かつてない異常なもので,原告Bに対する差別的不利益扱いであり,原告Bをできれば自発的に退職に追い込もうとする嫌がらせであり,いじめであった。
b 原告Bの浜松駐在について,被告が指定した駐在事務所は,産元商社から遠く,交通の便も悪い不適切なもので,原告Bの努力と産元商社の協栄の配慮で,同社の浜松市内の事務所を使用することになったものの,被告の原告Bに対する指示は異常かつ不適切なものであった。なお,昭和54年,Dの上司であるH課長代理は,Dに対し,「原告Bは共産党員であり,今は岐阜に隔離してある(岐阜は原告Bの出身地の誤りで,駐在先は「浜松」が正しい。)と述べていた。
c 原告Bは,浜松駐在中,丸編機用デジタル式糸長計の試作(現在は同様の商品が工場で利用されている。)をしたり,検反明細表天竺縦筋等級判定,品質管理,丸編設備明細表,ニットでのロス減少対策等のマニュアルの作成等多くの提案や調査報告,改善提案などを行った。
 さらに,原告Bは,浜松駐在中,上記のように業務に精励するとともに,遠州浜公団住宅自治会の結成に参加し,役員を約5年間務め,地域に貢献する活動をし,また,子供の保育関係では,年少・年長とも保護者会長を務め,「浜松市よりよい保育をすすめる会」の副会長を務めるなどして保育条件の充実に努力した。さらに,共産党員としては,地域の支部長,静岡西部地区準地区委員として,重要な役割を担当し,積極的な活動を行っていた。
d それにもかかわらず,被告は,原告Bに対し,同原告が共産党員であること,その思想信条を理由に退職勧誘等差別的扱いをした。
 被告は,昭和53年3月,原告Bに対し,業務指示文書として業務にかこつけて,「机上の空論,自己中心の考えは実地作業の充実を通じて排除される。理論に固執する傾向は当社員の姿勢として不適格であることは再々話しているとおりである。」,「誤字,内容のひとりよがりと思われる報告などは,当社員として不適格であり,将来性は乏しいと判断する。」など原告Bを従業員として不適格であると決めつけるかような記載のある文書を送付してきた。
 被告は,昭和53年からは,原告Bに対し,異常かつ執拗な攻撃と退職強要を繰り返した。同年4月には,W課長から,「Z部長が浜松へ出張するからそれまでに今後のことを考えておくように。」と言われ,出張してきたZ部長からは,「編成課の外注管理は本社の人員だけでできるから,W君ともよく相談してくれ。」と退職を示唆され,その後も再度浜松に出張してきたW課長は,「君の態度にははらわたが煮えくり返るほど怒っている。」と言って退職に応じない原告Bに不満をぶつけた。その後,W課長が転勤し,新任の編成課長a(以下「a課長」という。)が浜松に出張してきたが,そのとき,a課長は,原告Bに対し,「駐在の仕事はしなくてよいから転職先を探したらどうか。」と露骨に退職を迫った。また,原告Bが休日の点
に関して話をすると,a課長は,「不満があるなら辞めてもらっていいんだ。」と全く取り合わない様子であった。
 その後も,原告Bは,a課長から,「私に降りかかった火の粉は払わなくてはならない。」と言われたりした。また,原告Bが大阪に出張した際には,a課長が人事を担当している同期のRを訪ねてはどうかと言うので会ってみると,同人から「浜松駐在も見込みがないから転職を考えたらどうか。」などと言われた。
 その他,被告は,原告Bに対し,駐在場所の変更を理由に同原告の通勤手当を減額したり,同原告が自己申告表に外国語が不得手であると書いたところ,英文の文献を翻訳せよとの業務命令を出したりした。
e 昭和62年には協栄がニットを扱わなくなり,原告Bが浜松に駐在する理由がなくなっため,被告は浜松駐在を廃止し,原告Bは浜松駐在を解かれた。
 原告Bは,被告が浜松駐在を廃止する際,被告から要望を聞かれ,被告の工場勤務を希望したにもかかわらず,被告は,原告Bに対し,クリエスター出向を命じた。クリエスターは,ニット課の外注生産を担当する商社ではあったが,被告から出向している者は原告Bの出向当時には存在せず,既に転籍していた元ニット課のb(以下「b」という。)がいるだけであった。
 上記出向は,業務上の必要性も明確ではなく,原告Bを被告の工場から排除することを目的とする差別的なものであった。
 クリエスター出向以降
 原告Bは,クリエスターにおいて,新商品ニットの生地,柄作成,ニット生地,柄データベースの充実など生産管理,品質管理を主体としたテキスタイル業務を担当し,丸編ニット業務等パソコンのソフトウェアをまとめ,「KNITPLAN」,「KNITLINK」と名付けたソフトウェアとしてシステム化した。これは,小冊子,パンフレットで対外的にも分かりやすいようにされ,高い評価を受けることになった。
 また,原告Bは,丸編ニットの編成技術では「クラボウでも貴重な人材」と言われ,見本や商品開発用の生地分析などの依頼を受けた。
 その他,原告Bが業務に関し,資格を得たり受賞したりしたものとして次のものがある。
a 日本紡績協会・日本綿業振興会などが主催する「コットンの日Tシャツデザインコンテスト」で優秀賞受賞
b 情報処理技術試験 初級システムアドミニストレータ合格
c 繊維製品品質管理士試験3科目合格
 以上に反して,仕事上のミスはほとんどなく,前記のとおり目標カードにおいても上司から高い評価を受けてきた。
 以上のとおり,被告は,遅くとも昭和51年5月ころから,原告Bを共産党員と認識し,その思想信条を嫌悪するゆえに,同原告が昭和46年以降被告に入社してからも共産党員として積極的な活動をしつつも,被告の業務を誠実に行い,数々の業績を上げるとともに,上司からも高い評価を受けていたにもかかわらず,昭和51年4月1日に専門職2級Bに昇進させて以降,現在に至るまで一度も昇進させず,賃金面でも不当な低賃金を強いて他の従業員と比較して差別的に処遇してきた。
 被告における従業員の昇進(昇格又は昇等)の実態
ア 被告における賃金制度は,規程上は一応能力主義的な表現も見られるものの,実際には原告ら例外を除いては,事実上年功序列的な昇格,昇等が行われており,その結果,年功序列的な賃金体系となっている。すなわち,被告においては,大卒者の場合,通常専門職に昇格する前の見習職の滞留年数は2年となっている。また,専門職3級,同2級B,同2級Aの滞留年数はいずれも3年となっており,その後管理職に昇格する。
イ 原告A(現在専門職2級A)の同期同学歴者は,被告の役員となっている1名を除き,すべて管理職(しかもすべてが同1級)である。別表6「原告Aと同期入社者(同学歴)の昇格・昇級状況」は,原告Aと同期同学歴の従業員が管理職3級ないし1級又は役員に昇進した時期及び原告Aと同期同学歴の従業員がそれぞれ管理職3級ないし1級又は役員に昇進するまでに要した年数をまとめたものである。原告Aの同期同学歴者9名が管理職3級に昇格するまでに要した勤続年数は,1名が14年,2名が15年,3名が16年,2名が17年,1名が22年とほぼ横並びの状態であり,この昇格までに要した年数は平成16.4年である。
ウ 原告B(現在専門職2級B)の同期同学歴者は,大半が管理職である。大学卒の原告Bは,入社時に見習職に置かれ,その後専門職に昇格したが,同期同学歴者は,専門職の職掌内で順次昇等し,大多数が管理職に昇格している。別表7「原告Bと同期入社者(同学歴)の昇格・昇級状況」は,原告Bと同期同学歴の従業員が専門職1級及び管理職3級ないし1級に昇進した時期及び原告Bと同期同学歴の従業員がそれぞれ専門職1級及び管理職3級ないし1級に昇進するまでに要した年数をまとめたものである。これによると,原告Bの同期同学歴者の35パーセント(14名)が管理職1級,25パーセント(10名)が管理職2級,25パーセント(10名)が管理職3級であり,管理職合計34名は全体の85パーセントである。また,原告B
の同期同学歴者の多くは,入社後11年から12年(平均12.7年)で専門職1級に,入社後平均17.1年で管理職3級になっている。
エ 上記のように,管理職3級への昇格の時期(勤続年数)は,ほぼ同時期である。また,その昇格に要した年数の平均が異なる入社時期の者(原告Aの同期同学歴者と原告Bの同期同学歴者)でも16.4年及び17.1年とほぼ同じ値を示している。
 このように被告における昇進の運用は実際には年功序列的に行われている。そして,昇進が年功序列的である結果,当然に賃金額も年功序列的に上昇している。
 したがって,その結果,後記のとおり,差別的処遇を受けていた原告らの賃金と同期同学歴者のそれとの間には大きな格差が存在する。
 原告らの賃金格差
ア 原告Aの賃金格差
 基本賃金の賃金格差
 原告Aと同期同学歴の標準者との賃金格差は,別表8「平均者と原告Aの基本賃金差額試算表」のとおりである。実際には,同表に記載の「昭和55年」以前から格差は生じていたが,資料の存する同年以降の差額を表にしたものである。
 これによると,一貫して格差が拡大し続けているが,特に格差が顕著となったのは,平均者が管理職に昇格した後である。
 一時金・賞与の格差
 原告Aと他の従業員との一時金・賞与の格差は,別表9「平均者と原告Aの一時金差額試算表」のとおりである。
 これは,平均者の一時金・賞与の金額と,これに対比して原告Aの一時金・賞与の実績を記載したものである。これによると,一時金・賞与における不合理な差別が歴然としている。
イ 原告Bの賃金格差
 基本賃金の格差
 原告Bと同期同学歴者の標準者との賃金格差は,別表「平均者と原告Bの基本賃金差額試算表」のとおりである。その趣旨は,原告Aと同様である。
 一時金・賞与の格差
 原告Bと他の従業員との一時金・賞与の格差は,別表「平均者と原告Bの一時金差額試算表」のとおりである。一時金・賞与における不合理な差別が歴然としていることは,原告Aの場合と同様である。
 原告らに生じた損害
ア 原告らのあるべき職掌
 原告らの同期同学歴者のほとんどの者は,管理職以上である。
 原告Aの場合には,同期同学歴者のすべてが管理職1級以上であり,中には被告役員に就任している者もある。
 原告Bの場合には,同期同学歴者の9割近くが管理職3級以上である。
 そして,原告らを合理的な理由もなく専門職にとどまらせている被告の処遇は,原告らの共産党員としての思想信条を嫌悪したもので,合理的な理由のない差別であり,原告らは,いずれも少なくとも管理職3級に格付けされるべきである。
イ 原告らのあるべき賃金額及び差額賃金相当額の損害
 基本賃金
 原告らの同期同学歴の従業員の平均者は,前記のとおり,基本賃金額として別表8(原告Aの場合)又は別表(原告Bの場合)の「平均者」欄記載の賃金を得ている。
 原告らについても,平均者と同額の賃金が支給されるべきであるにもかかわらず,被告は,何ら合理的な理由もなくこれよりもはるかに少ない金額の賃金しか支払ってこなかった。
 この処遇は,前記のとおり,原告らの思想信条を嫌悪したもので,合理的な理由のない差別であり違法であって,不法行為に該当する。
 上記不法行為による損害額は,原告Aについては別表8「差額」欄記載の金額(月額),原告Bについては別表の「差額」欄記載の金額(月額)である。また,平成12年4月以降平成14年6月までの差額賃金(月額)は,原告Aについては22万7700円,原告Bについては18万0641円である。
 このうち,本件において各原告が差額賃金相当額の損害として請求するのは,平成9年4月分以降平成14年6月分までの差額賃金相当額の損害であり,同期間の各原告の差額賃金相当損害金の合計及び内訳は,以下のとおりである。
a 原告A
 平成9年4月から平成10年3月まで(12か月)
 23万2034円×12か月=278万4408円
 平成10年4月から平成11年3月まで(12か月)
 23万5078円×12か月=282万0936円
 平成11年4月から平成11年9月まで(6か月)
 22万7900円×6か月=136万7400円
 平成11年10月から平成12年3月まで(6か月)
 22万7700円×6か月=136万6200円
 平成12年4月から平成14年6月まで(27か月)
 22万7700円×27か月=614万7900円
          合計  1448万6844円
b 原告B
 平成9年4月から平成10年3月まで(12か月)
 18万0312円×12か月=216万3744円
 平成10年4月から平成11年3月まで(12か月)
 17万8948円×12か月=214万7376円
 平成11年4月から平成11年9月まで(6か月)
 18万1041円×6か月=108万6246円
 平成11年10月から平成12年3月まで(6か月)
 18万0641円×6か月=108万3846円
 平成12年4月から平成14年6月まで(27か月)
 18万0641円×27か月=487万7307円
          合計  1135万8519円
 一時金・賞与
 原告らが管理職3級に格付けされた場合に支給されるべき一時金・賞与の合計額は,別表9(原告Aの場合)及び別表(原告Bの場合)の「平均者」欄記載の金額である。これと実際の支給額(各原告の「実績」欄記載の金額)との差額は各表の「差額」欄記載の金額である。そして,平成12年6月,同年12月,平成13年6月,同年12月,平成14年6月においても差額が発生しており,上記各年6月支給分に関しては,原告Aにつき60万9700円,原告Bにつき57万9865円をいずれも下回らないし,上記各年12月支給分に関しては,原告Aにつき54万4349円,原告Bにつき59万4335円をいずれも下回らない。
 このような処遇は,被告が原告らの思想信条を嫌悪したもので,合理的な理由のない差別であり違法であって,不法行為にあたる。
 このうち,本件において各原告が差額一時金・賞与相当額の損害として請求するのは,平成9年6月分以降平成14年6月分までの差額一時金・賞与相当額の損害金であり,同期間の各原告の差額一時金・賞与相当損害金の合計及び内訳は,以下のとおりである。
a 原告A
 平成 9年 6月支給一時金・賞与 81万0889円
 平成 9年12月支給一時金・賞与 80万8071円
 平成10年 6月支給一時金・賞与 76万4271円
 平成10年12月支給一時金・賞与 65万5319円
 平成11年 6月支給一時金・賞与 60万9700円
 平成11年12月支給一時金・賞与 54万4349円
 平成12年 6月支給以降平成14年6月支給までの一時金・賞与合計             291万7798円 
               合計 711万0397円
b 原告B
 平成 9年 6月支給一時金・賞与 61万8142円
 平成 9年12月支給一時金・賞与 63万5652円
 平成10年 6月支給一時金・賞与 63万7796円
 平成10年12月支給一時金・賞与 61万5619円
 平成11年 6月支給一時金・賞与 57万9865円
 平成11年12月支給一時金・賞与 59万4335円
 平成12年 6月支給以降平成14年6月支給までの一時金・賞与合計             292万8265円 
               合計 660万9674円
ウ 慰謝料
 被告による合理的な理由のない差別的処遇により原告らが被った損害は,正当な賃金を受けられなかったという経済的な側面にとどまるものではない。前記のように,原告らは,業務の上でも研鑽を怠らず,多くの具体的な実績を上げてきたにもかかわらず,昇進の面でこのような実績に対する正当な評価を全く受けることなく,そのため,同期同学歴の従業員のみならず相当後輩にあたる従業員よりも下位の地位にとどめ置かれ続けた。すなわち,被告は,原告らが共産党員であるとの認定,認識のもとに差別的な査定を行い,これにより原告Aについては昭和50年4月に専門職2級A(S2A)に昇等させて以来現在に至るまで全く昇進させていない。また,原告Bについても,昭和51年4月に専門職2級B(S2B)に昇等させて以来,現在
に至るまで一度も昇進させていない。このような取扱いが原告らの職場における信用評価を損なうのみならず,社会的評価,また近親者との関係における名誉感情も深く傷つけたことはあまりにも明白である。
 また,被告は,原告らに対し,ほかにも前記のような種々の嫌がらせを現在に至るまで行い,原告らに精神的苦痛を与えたものであり,これらも不法行為に該当する。
 したがって,被告は,原告らに対し,これらの精神的苦痛に対する慰謝料を支払う義務がある。
 そして,この慰謝料を算定するに当たっては,次の要素が考慮されなければならない。すなわち,本件における直接的な差別の手段とされた賃金は,労働者にとって基本的な労働条件であるが,賃金においていったん生じた格差は,これが本件のような著しい程度に達したときは退職金や年金にまで不利益を及ぼし,将来にわたって解消することが困難となる。したがって,このような侵害に対する救済として財産的損害を回復するだけでは十分でない場合には,精神的損害の回復により補われるべき必要がある。この点,昇格・昇等における差別的処遇によって,昭和55年4月以降平成14年6月までに各原告に生じた差額賃金相当額及び差額一時金・賞与相当額の合計は,原告Aについては5732万0391円(別表8,9の各差額累積合計の
総合計4825万4693円に前記,イ,,a,の614万7900円及び同,a,の291万7798円を加えたもの),原告Bについては4506万2045円(別表,の各差額累積合計の総合計3725万6473円に前記,イ,,b,の487万7307円及び同,b,の292万8265円を加えたもの)である。したがって,慰謝料の算定に当たっては,これらの額を考慮することが必要である。さらには,このような思想信条による差別が多くの企業によって常態的に行われてきたことは,いまや公知の事実であり,我が国の企業における構造的特質ともいえ,このような行為が放置されることによる社会的影響は計り知れない。したがって,このような差別による慰謝料は,個別の原告に対する精神的慰謝という意義
にとどまらず,この構造的特質を改善し,「差別はペイしない」という認識を持たせるよう,企業にとって制裁的な要素を持つ必要がある。
 以上の点を考慮すると,本件の慰謝料としては,原告Aについては,上記差額合計5732万0391円から本件において請求する差額賃金相当額及び差額一時金・賞与相当額の合計2159万7241円を控除した後の概数である3572万円,原告Bについては,上記差額合計4506万2045円から本件において請求する差額賃金相当額及び差額一時金・賞与相当額の合計1796万8193円を控除した後の概数である2709万円とするのが相当である。
エ 弁護士費用
 本件の弁護士費用は,原告Aについては550万円,原告Bについては450万円が相当である。
 よって,不法行為による損害賠償請求権に基づき,被告に対し,原告Aは6281万7241円及びこれから弁護士費用を控除した金員に対する別紙「原告A遅延損害金」記載の遅延損害金の,原告Bは4955万8193円及びこれから弁護士費用を控除した金員に対する「原告B遅延損害金」記載の遅延損害金の各支払を求める。
3 被告の主張
 被告は,本件訴訟が提起されるまで,原告らが共産党員又はその同調者であるとの認識を有していなかったし,被告における昇進運用は,後記のとおり,職能制度に準拠した能力主義であり,思想信条等を理由とする差別的な取扱いは一切ない。
 また,被告が現在に至るまで共産党差別政策をとってきたことは一切ないし,倉紡労組が民社党一党支持の方針のもと,原告らを中心とした共産党勢力の排除を目指して活動し,被告が倉紡労組と癒着して,原告らに対し,差別的な取扱いをしたようなこともない。
 原告らの昇進運用が低調なものにとどまっているのは,原告らの業績・能力についての人事考課の結果が所定の水準に達していないことによるのであって,被告において能力主義が適正に運用されてきた結果にほかならない。
 被告における昇進運用の実情
ア 被告における大卒者に対する昇進運用について
 大卒者は,入社時に見習職1級(M1)に位置づけられる。なお,入社1年目の者については人事考課を行わず,育成のために観察のみを行うこととしている。
 入社2年目の者については,職能等級は1年目と同様,見習職1級(M1)に据え置かれる。これは,別表4「第2-表 社員昇進基準表」に定めがあるとおり,「M1→S3」の昇進については,その最低滞留必要年数が2年とされているためである。なお,ここにいう最低滞留必要年数とは,昇進に当たっての必要条件の一つとして位置づけられるものにすぎず,当該年数の滞留があれば,当然に昇進するという性質のものではない。また,入社2年目の者については,同一職能等級(すなわち見習職1級)の者だけを考課対象群とした人事考課を実施する。
 入社3年目は,通常専門職3級(S3)に昇格する。なお,専門職に対する人事考課は,同1級ないし3級を同一考課対象群として実施する。そのため,この時点で,学歴や入社年次の要素は払拭され,以後の昇進は,人事考課の結果に依拠して決定されることとなる。
 したがって,専門職に昇格後,同一職掌内で一定年数ごとに必ず昇等するというわけではないし,また,専門職の者が必ず管理職へ昇格するというものでもない。
イ 被告における昇進運用が能力主義によっていることについて
 上記のように,被告における昇進の運用が職能制度に準拠した能力主義によっていることから,専門職(S職)に昇格して以降の昇進については,人事考課が同1級から3級を同一考課対象群として実施される結果として,学歴や入社年次の要素は完全に払拭される。したがって,その後の昇進状況は人により様々で,その後の昇等や昇格に要した年数は人によって異なるし,入社年次を逆転して昇等・昇格がされた例も多く見受けられる。また,一定の職能等級でいわゆる頭打ちの状況となり,以降昇進しないというケースも多数存在する。このように,被告においては,一定の勤続年数を経れば自動的に昇進するというものではない。
 同期入社者との比較が意味をなさないことについて
 上記のようなことからすると,昇進運用に関して,原告ら主張のように同期入社者との比較をもって論じることは,何らの意味を持たないというべきである。
 管理職(K職)への昇格状況について
 前記のとおり,被告の昇進運用に関し,同期入社者との比較をもって論ずることは何ら意味を持たず,たまたま原告Aの同期入社者をみた場合,同原告以外の全員が管理職になっていたというにすぎない。このことを,原告らが入社した前後5年を含め,昭和37年ないし昭和51年に被告に入社した者について,入社後17年時点の在職者ベースで管理職に昇格していない者(専門職滞留者)の割合をみると,別表「入社17年時点における専門職滞留者」記載のとおりである。
 これによると,原告ら以外の者についても,入社後17年時点で管理職に昇格していない者(専門職滞留者)が半数近く(全体で43パーセント)もいる。そして,専門職滞留者がみな共産党員又はその同調者であるという事実は全くなく,専門職滞留者が管理職に昇進し得ないのは,現職における人事考課が所定の水準以上に達していないなど,昇格の条件を満たしていないことによるのであって,その思想信条とは何ら関わりがない。
 なお,被告においては,定年前退職率は優に4割を超えている。このような定年前退職者の相当数は,能力的に見て専門職にとどまらざるを得ないことを自ら悟り,定年を待たずして退職した者である。これら定年前退職者を含めると,専門職滞留者の割合は,より一層高くなると考えられる。
 このように,原告らが同期入社者との比較論を根拠に管理職への格付けを主張していることは明らかに失当というべきである。
ウ Dの昇進状況について
 D(昭和40年入社。既に被告を退職)は,入社後10年目の昭和50年に専門職1級に昇進している。このような昇進状況は,同期入社者との比較からみても何ら遜色がない。Dは大学院卒であり,その初任等級が専門職3級であることからすると,同人が入社後専門職1級に昇等するまでに要した年数と,同期入社の大卒者が専門職3級に昇格して以降専門職1級に昇等するまでに要した年数との比較でみると,全15人のうち,最短9年が9名(60パーセント),10年(Dを含む。)が4名(27パーセント),12年が1名(7パーセント),20年が1名(7パーセント)となっている。
 そして,Dの専門職1級への昇等の時期が昭和50年であることからすると,被告において,原告らが「Dメモ」と称する書類を引用して主張するような昇進差別がされていないことは明らかである。むしろ,Dが,のちに特許関係の業務に精励し,難関の弁理士資格を取得したことなどからしても,被告の当時の能力評価が適正であったことがうかがわれる。
 原告らの問題点について
 原告らの昇進運用が低調なものにとどまっているのは,原告らの業績,能力についての人事考課の結果が所定の水準に達していないことによる。具体的には,以下のとおりである。
ア 原告Aについて
 入社後国内留学に至るまで
 原告Aは,昭和44年4月から技研の補助研究員となり,昭和45年4月から研究員となった。原告Aは,担当する各種研究の一部を先輩研究員のもとで補助していた。
 原告Aは,昭和47年6月に専門職2級B,昭和50年4月に専門職2級Aに昇等したが,上司に研究の進め方,手法に問題があると評されており,これを早期に習得させる必要があるされていた。
 国内留学が終了するまで
 被告は,昭和51年10月,原告Aに対し,岡山大学工学部C研究室への国内留学を命じた。これは,上記のとおり,原告Aの研究開発業務に多くの問題があり,現状のままでは研究員としての勤務に耐えないものであったことから,原告Aの当時の上司であったEの口利きで実現したものである。なお,Eは,被告入社以前は大阪府立大学で講師を務めており,講師当時C教授と同僚で,共同研究を行うなどしていたことから,その縁で原告Aを同教授のもとへ国内留学させる運びとなった。
 しかし,原告Aは,周囲の期待に反し,国内留学において十分な成果を上げることができず,むしろC教授からは,被告に対し,研究員として適性がない旨の報告が寄せられた。C教授によれば,原告Aに対しては知識のみならず研究手法の習得を期待したが,不満足な結果であり,同原告は,自主性,計画性に欠けるため,自主的に計画し展開させる仕事には適さないということであった。また,研究開発において最も要求される各種事象の観察,結果の解析,実験の計画という点でもかなり劣っており,それにもかかわらず,自己過信が強く,これらの能力の欠如を冷静に見つめようとしないところがあるとのことであった。さらに,創造性,積極性,向上心にも欠けており,結局,能力,資質とも研究開発業務には適さないとのことであった。

 以上のような事情から,被告は,原告Aが研究開発業務に適さないと判断し,同原告に対し,昭和54年1月1日付けで技研総務課員勤務を命じた。
 総務課員としての働きぶりについて
a 技研総務課の組織,分掌事項及び課員の担当業務
 技研には従前から管理部門と研究部門が設けられていたが,昭和46年10月1日,各部門を担当する課名が組織規則上明文化されることになり,管理部門担当は「技術課」,研究部門担当は「研究グループ」と呼称されるようになった。なお,昭和50年4月16日,「技術課」は「総務課」に改称された。
 総務課の業務内容は,組織規則上,以下のとおりである。
 研究企画の総括
 人事,労務,会計,資材及び庶務事項
 電気設備その他付帯設備の管理
 そして,実際には,上記業務内容をより細分化し,それぞれ時代に即応して,課員の担当業務が定められている。
b 原告Aの担当業務及び働きぶり
 原告Aは,昭和54年及び昭和55年は「原動・工作補助」,昭和56年から平成2年までは「工作補助」,平成3年から平成5年までは「工作・翻訳」,平成6年以降は「翻訳」をそれぞれ担当していた。ここにいう「原動・工作」とは,電気系統保守管理,建物・器具の保守管理業務をいう。なお,現在は「原動・工作」はほとんど外注化されており,その業務は外部業者との連絡調整が中心となっている。担当が直接行う業務としては,蛍光灯の取替え,電気コンセントの位置変え等の些細な電気関係業務,本館の空調設備管理,給排水及び消火設備の維持管理,ドア・窓・床等の些細な建物保守業務等である。「翻訳」業務とは,当初主任研究員の補助として,翻訳機を用い,アメリカのビジネス情報提供会社「山一モンゴメリー」の情報を
翻訳する業務であったが,平成4年10月以降は,新聞記事を中心とした技術情報の収集と回覧がその業務内容となっている。なお,従前は,新聞記事を切り抜いて作成したコピーを研究員に回覧する方式であったが,平成13年4月からは,パソコン及びスキャナソフトを使用して新聞記事を電子的に読み取り,ネットワーク上で研究員が閲覧する方法を採用しており,業務呼称も「資料収集」となっている。以上に加え,総務課は,付帯設備の管理業務もその分掌事項の一つとしているので,課員(原告Aのみならず,課長や他の課員も含む。)は,清掃等(時に草取りを含む。)を日常業務の一環として行うことになっている。
 原告Aは,自分は研究業務に向いているとの勝手な思い込みから,研究業務に就けてもらえないことに不満を持っていた。そのためか,担当している原動・工作補助業務にしても,翻訳業務にしてもおよそ真摯に取り組んでいるとはいいがたい働きぶりであり,その人事考課の結果が芳しくないのは当然のことである。例えば,原動・工作補助を担当していた当時,上司が業務の指示をしても,大学出が高校出から指示を受ける立場ではないなどと述べて素直に上司の指示に応じなかった。また,自主的に仕事に取り組む姿勢がみられず,一人で本を読むなどしていた。
 原告Aのこのような自己中心的な態度は,翻訳業務に就いてからも変わっていない。平成13年4月からパソコンが導入されることとなったが,データーベース運用の際に用いるキーワードの設定においても,原告Aは,自らの個人的な趣味である昆虫に関するキーワードを独自に設定するなどしており,その公私混同ぶりは甚だしい。
 なお,自らの執務場所を隔離部屋であったとする原告Aの主張は,全く事実に反しており,当時,原告Aと執務場所を同じくしていた上司や同僚からは,執務場所について不平不満は何ら出ていなかった。
 以上のように,原告Aの働きぶりは,他の従業員と比較して見劣りのするものであり,管理職3級への昇格など到底望むべくもないことは明らかである。
 原告Aは,被告の共産党差別政策により,様々な差別的処遇を受けてきた旨主張するが,いずれも理由がない。すなわち,
a 原告Aが被告への入社内定時に技研配属の研究者となる旨内示されていたことはなかったし,工場の技術者となる者が工場実習を経ること及び研究所配属者が工場実習を経ないことは当然のことである。したがって,原告Aの入社及び入社後の経歴が特別のものというわけではない。
b 原告Aが昭和49年9月に技研とエンジの兼務となり,昭和50年4月に上記兼務を解かれ,昭和52年に再び技研所属になったのは,エンジの拡大・縮小に伴う措置であって,他の多くの従業員もそれに伴って異動している中での一事例にすぎない。
c 原告Aが技研において関与した技術研究について,6件につき特許出願がされているが,原告Aはいずれも補助的な役割しか担っていなかったし,出願された6件のうち,3件については特許に値しないとして拒絶査定され,2件については出願したものの登録に値しないとして審査を取り下げ,1件については昭和55年に登録となっているものの,その後登録料の支払を継続するに値しないとの結論となり昭和61年に権利抹消された。
d 原告Aに対する国内留学は,同原告の研究の進め方,手法に問題があり,これを早期に習得させる目的で実施されたものであり,不当配転ではない。
e 被告が原告Aを技研総務課に配転したのは,それに先立つ国内留学において,同原告が十分な成果を上げることができず,担当のC教授から研究員として適性がない旨の報告があったことによる。
 f 被告が原告Aを国内留学終了時に大気開発部員触媒担当に復帰させるとの合意をしたかどうかは疑わしいし,被告が既に研究員として適性のない同原告を留学終了後も研究員として処遇し続けなければならないのは明らかに不合理である。
 g 被告は,学歴による職種区分を行っておらず,大卒者が通常担当しない職務などというものはない。したがって,大学工学部卒で被告の技研研究員としての職務に従事してきた者が「原動・工作補助」を担当することは通常あり得ないとか,研究員が総務課員になることはなかったなどということは,原告Aの勝手な思い込みにすぎない。
h 被告は,昭和59年5月当時,実験工場が手狭になったため,工務室を実験工場の2階に移動することとし,専門業者に新たな工務室の根太組・床(フローリング張り)と鉄骨の階段を作らせ,また,その部屋の仕切りは被告の従業員であるc(以下「c」という。)が作成した。同室は15平方メートルくらいの広さで,北側に2面の窓があり,エアコンも設置されていた。そして,同室では,c,q(以下「q」という。),原告Aの3名が机を並べており,研究員が依頼ごとの下相談で出入りしていた。もっとも,その1階にはトイレがあったが,水洗トイレであったし,また,移動後の工務室には,昼の休憩時に常時六,七名が将棋を指しに集まってきていた。
 したがって,上記工務室を,原告Aの主張のように「臭気が漂う隔離部屋」などと表現することは不適切である。
i 原告Aが平成4年9月に移動した本館1階の「1S3」の部屋の「1S3」とは,本館1階(1)の南側(S)の西から数えて3番目(3)という意味である。「1S3」は,エンジニアリング部門の部屋であり,他にも多くの職員がおり,原告Aひとりが執務しているわけではなかった。確かに,この部屋は,竣工時にはX線特殊物理実験室であったことから,もともと窓はなかったが,それは隣接する「1S4」も同様であり,原告A以外の職員も同様の環境のもとで執務している。なお,平成10年7月,原告Aの席は同じ部屋の西隅から東隅に移動することになり,パーテーションが仕切り直されたが,これはX線解析装置の導入に伴い席を移動したもので,同原告がQ社長に手紙を出した結果として行われたものではない。
j 原告Aは,ほかにも差別的処遇であるとして縷々主張するが,いずれも何ら理由のないものであるか,それ自体失当なものである。
イ 原告Bについて
 岡山工場勤務時代について
a 実習生時代
 被告は,昭和45年8月,新たにニット部門に取り組むこととし,翌46年3月,その生産を開始した。
 同年4月に入社した原告Bは,入社後3か月間の倉敷教習所での研修後,岡山工場ニット課の見習職として配属された。その後,大阪本社に転勤するまでの2年10か月間はニット技術者としての勉強期間であり,上司・先輩から指導を受けながら技術を習得する期間であった。
b 運転担任時代
 原告Bは,昭和47年4月1日以降,課員として「運転」職務を担当していたが,同原告の職務のまとめ役をしていたのは被告従業員のd(以下「d」という。)であった。原告Bの働きぶりは,このころから不十分で,そのため,同原告が本社に転勤後に同原告が担当していた「運転」職を担当することとなったr(以下「r」という。)は,引き継いだ女子従業員の教育をはじめ,職場の建て直しに相当の労力を要することとなった。
 大阪本社時代について
a 原告Bは,昭和49年6月1日付けで大阪本社技術サービス部(のちに組織変更で加工技術部となる。)編成課に配属となり,主に外注の編成指導を担当することとなった。
 原告Bは,昭和50年ころ,交編ニットの設計ミスによる不良反を大量に発生させるミスをし,金額にして150万から200万円にものぼる損失を発生させた。原告Bは,このような大きなミスをしたにもかかわらず,反省の態度を全く見せなかった。
b 原告Bの働きぶりは上記のようなものであったが,当時,同原告は,入社後まだ数年を経たばかりであり,将来ニット技術者として成長することが期待されていたため,昭和51年に専門職2級B(S2B)に昇等した。
 浜松駐在時代について
 浜松駐在としては,織布関係で過去に2名(s,t)が勤務していたが,ニット関係でも岡山,和歌山に次ぐ第三の生産拠点作りが必要と考えられていたため,被告は,原告Bに対し,その尖兵的役割とニット技術者としての成長を期待して浜松駐在を命じた。
 しかし,原告Bは,被告の期待を裏切り,次々とミスを発生させるに至った。すなわち,原告Bは,現場にいて最も早く搬出チェックが行える立場にありながら,度重なる大量の不良反を発生させた。
 当時の原告Bの上司で加工技術部編成課のW課長は,このような同原告の働きぶりに憤慨し,オカトクでの検反指導不徹底の件について業務指示文書を発し,強く警告したにもかかわらず,同原告は,自ら反省するところがなく,営業責任者との対応も開き直ったものであった。
 さらに,駐在場所が協栄(同社はニットから撤退した。)からムラニット株式会社に変わってからも,原告Bは,大量の不良反を発生させた。当時の上司であったa課長は,原告Bに対し,業務不履行についての始末書を書かせたが,同原告の書いた始末書は反省の態度がうかがわれず,今後の決意も感じられないものであった。
 このように,原告Bは,技術者として最も必要な部分すなわち自ら担当する仕事に対する責任意識に欠けており,そのため営業からの信頼も得られていなかった。また,原告Bが,被告本社の上司宛に送付してくる週間報告は,内容的に机上の空論と評せざるを得ないものばかりで,生産現場で具体化できるようなものはなく,生産現場で具体化され貢献したものはなかった。
 クリエスター出向以降について
 被告は,昭和62年7月16日,原告Bに対し,先染商品等の生産管理を行うクリエスターに出向を命じた。これは,生地のみの販売から製品販売も行い,よりコスト低減を求められる時代となってきたことへの対応策の一環である。なお,クリエスターへの出向者は,bが出向した昭和58年以前にはuが,原告Bの後にはvがおり,同社は被告ニット課ともつながりの深い会社である。
 クリエスターにおける原告Bの主な担当職務は,被告営業サイドからの要望を受けて先染商品の柄出しを行うことであるが,同原告の行う新商品の提案は,机上の空論的なものが多く,実際の商売にはつながらなかった。また,原告Bには,営業サイドからの納期その他の要望に対して何とかしようとの姿勢がなく,言い訳ばかりに終始するため,若手営業マンは,原告Bとの対応を避けるようになった。
 以上のとおり,原告Bが専門職2級Bにとどまっているのは,上記のようにミスを繰り返し損害を発生させるなどしたことや,仕事に対する取組に真摯さが欠けること等により,人事考課の結果が所定の水準に達していないことによるのであり,同原告の思想信条とは全く関わりのないことである。
 原告Bは,被告の共産党差別政策により,様々な差別的処遇を受けてきた旨主張するが,いずれも理由がない。すなわち,
a 原告Bが岡山工場時代に行ったと主張するニット用原糸の編成性測定機の改良,風綿除去装置の実用試験などの合理化の業務は,当時メーカーから機械を導入したばかりで,いわば実験段階にあったものであり,これに中心となって取り組んでいたのは,同原告ではなく,dであった。原告Bは,上記のとおり,当時勉強期間であり,dの手伝い程度のことをしていたにすぎない。
 b 社内教育用の書籍「製造概論ニット」中の丸編部門の項の原告Bによる執筆については,当時W課長は,技能学級用のテキストとして紡績・織布は既にあるがニット部門がなかったことから,比較的手の空いた同原告に対し,本人の教育にもなるとのことで,その執筆を指示したものである。内容的にはほとんどが「繊維工学便覧」の抜粋であり,大卒技術系の従業員としては容易になし得る職務であり,取り立てていうほどのことではない。そもそも「製造概論ニット」は昭和47年に作成されたものであり,当時原告Bがいまだ担当業務の特定されていない実習生段階であったことからしても,同原告自身の教育目的で,その執筆を指示したものであることは明らかである。なお,この冊子は,高卒・中卒の現場作業の初心者が学習するための
テキストで,そのベースとなっているのは工業高校の教科書「編組」であり,当時,嘱託として社外から招聘していた元大学講師であるeの指導のもとに作成された。
 c このように,原告Bには,具体的に表明し得るような仕事上の実績などはない。原告Bが,業務に関し資格を得たり受賞したりしたものを挙げていることはこのことの裏返しであり,原告Bが挙げている資格等はいずれも業務上必要とされているものではなく,趣味の範疇にとどまるものである。例えば,「コットンの日Tシャツデザインコンテスト」は,原告Bの担当業務とは何ら関わりのないものである。また,「初級システムアドミニストレータ」は,ニット技術者として取得を要請される資格ではなく,通常事務系の者が取得しようとする初歩的資格である。さらに,「繊維製品品質管理士試験3科目合格」というのも,業務上必要とされる資格ではない。なお,試験のレベルとしては,繊維に携わる者であれば,通常所定の5科目を1回
の受験で合格すべきものである。
 d 目標カードの達成率と人事考課(業績評価)とは直接結びつくものではない。また,目標カードの達成率は,60ないし80パーセントで「実績が目標をやや下回った。」,80ないし100パーセントで「実績がほぼ目標どおりであった。」,100パーセント以上が「実績が目標以上であった。」とされているのであり,「70ないし90パーセント」を「高い評価」であるというのは,原告Bの独りよがりの認識であるといわざるを得ない。e 原告Bの岡山工場から大阪本社への異動は,ニット部門の業容拡大に伴うものであり,原告Bの思想信条とは何ら関わりのないものである。また,原告Bは,昭和51年4月,専門職3級から専門職2級に昇等しているところ,仮に原告Bの主張のように,同原告に対して差別的処遇の一環として上記異動を行ったものであるとすれば,その後に被告が同原告に対し,上記昇等の決定を行うことなどあり得ない。また,原告Bの異動日と同日付けで原告B以外にも15名が異動していることからすると,上記異動は何ら異例のものではないし,原告Bと同期入社で綿合繊事業部に配属された技術者13名のうち相当数が1年ないし2年で異動していることからしても,原告Bの上記異動が異例なものであるということもない。
f W課長が昭和50年に原告Bに対し,もう人事から君をかばいきれなくなった旨発言した事実はない。原告Bは,昭和51年4月に専門職2級に昇等しているのであるから,人事からかばいきれなくなったとされる者が人事の決定に基づいて昇等するというのはいかにも不合理である。
g W課長は,他用のために原告Bの結婚式への招待を断ったにすぎないし,W課長の代わりにZ部長が出席していることからしても,W課長が出席しなかったことが何ら差別とは関係がないことは明らかである。
h 原告Bの浜松への異動は,被告が同原告に対し,ニット部門の生産地拡大に伴う尖兵的役割とニット技術者としての成長を期待して命じたものであり,原告Bの思想信条とは何ら関わりのないものである。
i 原告Bは,ほかにも差別的処遇であるとして縷々主張するが,いずれも何ら理由のないものであるか,それ自体失当なものである。
 慰謝料請求について
 原告らは,被告に対し,差額賃金相当損害金を上回る高額な慰謝料を請求しており,その算定の根拠とするところは,昭和55年4月以降の差額賃金相当損害金である。
 しかし,判決により財産的損害が回復された場合,特段の事情のない限り,精神的損害はなく,慰謝料請求は認められないと解すべきである。そして,上記特段の事情については,財産的損害が回復されても当然に精神的損害があると主張する原告らにおいて具体的に主張立証しなければならない。
 また,本件において,特段の事情が認められ,賃金差別による精神的損害が認められるとしても,それによる慰謝料額は,認められる財産的損害(賃金差額)と均衡のとれたものでなければならず,その金額が認められた財産的損害を上回ることは明らかに均衡を失するというべきである。制裁的損害賠償は,我が国の不法行為法理の下においては,認められる余地のないものであり,差別による慰謝料は企業にとって制裁的な要素を持つ必要がある旨の原告らの主張は失当である。
 消滅時効
 仮に被告に対する慰謝料請求が認められる場合,被告は,平成13年6月13日到達の準備書面により,原告らに対し,3年の消滅時効(民法724条)を援用する旨の意思表示をした。
 したがって,本件訴訟提起から3年以上前の事実関係に基づく慰謝料請求権は,すべて時効により消滅したというべきである。
 よって,原告らの請求は,いずれも理由がない。
4 争点
 被告の原告らに対する差別意思及び差別的処遇等(故意及び加害行為)の有無
  被告の共産党員に対する差別意思
  被告による原告Aに対する差別的処遇
  被告による原告Bに対する差別的処遇
 賃金格差(財産的損害)及び違法性の有無
  賃金格差の有無
  賃金格差に関する違法性の有無
 原告らに生じた財産的損害の額及び精神的損害の有無及び額
  賃金相当損害金(財産的損害)
  精神的損害の有無及び額並びに消滅時効の成否
第3 当裁判所の判断
1 被告の労務政策一般について
  前提事実,証拠(甲2,15,45ないし47,48の1・2,49,50,51の1・2,54ないし56,64ないし66,67の1ないし3,69ないし77,95,111,112,123ないし125,証人f,同g,同h,原告A本人,同B本人)及び弁論の全趣旨によると,以下の事実が認められる。
ア 倉紡労組結成の経緯等について
 被告には,第二次世界大戦前は労働組合が存在しなかったが,戦後,労働組合法等の労働関係諸法が制定され,被告においても従業員の総意による健全な労働組合の結成を期待し,その準備段階として,工場ごとに委員会(各工場によりその名称が異なる。)をつくり,その運営を通じて,従前被告が行ってきた従業員の福利,厚生,体育,教育,教養などの運営を従業員が自らの手で行うように環境を整え,漸次それが労働組合に発展するよう配慮した。このような経緯をたどって,昭和21年4月,被告万寿工場及び玉島工場に工場単位の労働組合が相次いで結成された。
 被告は,民主的で健全な労働組合の結成を期待するとして,昭和21年1月には,勤労課長会議を開催した。そのころ,被告津工場において,共産党の指導を受けて従業員組合立誠会(倉敷工業株式会社津工場従業員組合立誠会)が結成されたが,被告は,結成に関与した従業員を「一部の急進的思想を持った従業員」であるとし,「(同会の)組合幹部は教条的な言動で組合員を扇動した」と評した。この従業員組合立誠会は,昭和22年1月に解散したが,上記組合による津工場の労働争議発生後間もなく被告本社から実情把握等のために派遣された従業員(被告本社労務課長)が,左翼思想に共鳴し,労働者側に与して被告経営陣と総同盟(日本労働組合総同盟)右派幹部を攻撃し,被告を解雇された後に津工場急進派幹部とともに他の工場を
訪れ,被告の今治,長岡,堀之内の各工場労組を糾合して倉紡労働組合連合会(倉敷紡績株式会社労働組合連合会。以下「連合会」という。)を結成したことがあったが,被告は,その労務課長が左翼思想に共鳴し,被告経営陣と総同盟右派幹部を攻撃したことを「異常な行為」と評した。その後,津工場では再び労働争議が発生したが,被告は,津工場における組合活動を急進的な労働思想を持った運動として,ロックアウト,賃金不払いも含めた強行措置を講じた。また,津工場の従業員の中で,労働組合の活動に同調せずに労使協調による生産復興を望む自重派は,昭和22年3月,別の労働組合である津工場労働組合(倉敷紡績津工場労働組合)を結成した。
 被告には,このほかにも,昭和21年5月に被告丸亀工場の従業員を中心に結成された倉敷紡績労働組合同志会(倉敷紡績株式会社労働組合同志会。以下「同志会」という。)があったが,被告は,連合会の組合活動を「過激」と評するのに対し,同志会を「穏健な思想を持って,民主的に労働運動を展開した」と評していた。なお,同志会は,労働組合総同盟幹部の指導を受けていた。また,同志会は,本来使用者側に属する立場であった工場課長の労働組合への加入を認めていたところ,連合会は,これをもって同志会を被告の御用組合であると非難していた。
 昭和21年7月,同志会から被告に対して賃上げ要求が出されたが,これについて,被告と同志会は労使協議会を開催し,被告は,同年7月,被告の全工場に対し,賃上げ等を発表した。
 被告は,労使関係の基本的調整のため,労働組合との間に労働協約を締結することを考えていたが,連合会と同志会が対立していたことから両者を統合することは無理であると判断し,昭和21年10月,同志会との間で労働協約を締結した。なお,連合会は,昭和22年3月に解散した。
 一方,同志会は,組織を改組し,昭和22年7月,全工場労働組合を包含した倉敷紡績株式会社労働組合(倉紡労組)を結成し,上部団体である日本労働組合総同盟全国繊維産業労働組合同盟(略称全繊同盟。後のゼンセン同盟)に加入した。倉紡労組の基本は,原則として,労使協調主義をとり,階級闘争的立場を排するというものであった。なお,倉紡労組は,その正式名称を,昭和24年には倉敷紡績労働組合に,昭和38年には全繊同盟倉敷紡績労働組合に,昭和50年にはゼンセン同盟倉敷紡績労働組合に改称した。
イ 被告及び倉紡労組の関係について
 倉紡労組は,その結成時から労使協調路線を原則とし,昭和45年1月1日締結の労働協約において,被告との間でユニオン・ショップ制を定めている。
 全日本労働総同盟(同盟)は,昭和49年に第10回全国大会を開催し,全繊同盟から同大会に出席した代議員(同大会には,全繊同盟から約70名の代議員が出席した。)は,活動方針案中の政党支持の自由に関する件について,民社党を支持すべきであると主張し,同大会においては,参議院選挙での同盟組織内候補の全員当選のほか,全民社党公認候補の当選を期して同盟の総力を挙げて戦うこと等が決議された。また,同年1月31日付けの全繊同盟の機関誌である「全繊新聞」には,同盟の運動方針案の一つである「政治活動の強化」について,「民社党に対する支持を一層強化し,支持団体手続の促進・大量入党運動・団体加盟方式の検討など,同盟が進んで主演者の役割を果たすよう積極的な姿勢をとる。」,「政党支持の自由化につ
いて,その多くは共産党がその影響力を拡大するための戦術から出たものであり,政治活動から逃避した政治的中立主義や政治路線をあいまいにしたままの政党支持の自由は,労組活動を経済闘争に極限するか政党関係の複雑化によって内部混乱をひき起こすかの結果を招く。」との記事や,「300万組織の達成へ」として,「当面300万組織の実現を目標に同盟組織の拡大と強化をはかる。最近の共産党の組合に対する系統的動向に対処して,これと対決する姿勢を強く打ち出す。」との記事が掲載された。
 全繊同盟は,昭和49年2月に開催された第29回定期大会において,同年度の運動方針の一つとして,民社党を積極的に支持するとの方針を決定した。
 倉紡労組は,昭和49年3月に開催された第28回定期大会において,第5号議案として,組織の強化と充実を図るための活動の一つとして政治活動を挙げ,民社党強化のために入党促進,国民運動,地域活動への参加など日常活動を一層強める努力をするほか,同盟,全繊同盟が行う政治活動にも積極的に参加すること,また,第9号議案として,参議院選挙必勝決議として,同年6月に予定されていた参議院議員選挙について民社党候補者を組織内候補者とすることや,今後の活動については全繊同盟の第29回定期大会で決定された方針に基づいて展開することが挙げられ,これらの議案は,いずれも可決された。
 被告は,労働組合対策の一つとして,倉紡労組の役員選挙に当たって,専門職従業員を倉紡労組に意識的に送り込んで,組合運営に被告の意向を反映させていた。また,被告は,倉紡労組へ共産党の影響が及ぶことを防ぐため,被告が共産党員であると認識した従業員が倉紡労組の役員選挙に立候補する際には,上司がその従業員に対して立候補の辞退を促したりしていた。
 さらに,被告は,倉紡労組の民社党一党支持の取組に積極的に協力していた。例えば,倉紡労組大阪支部長作成の昭和57年12月21日付け「83年政治決戦を勝利するために(ご協力お願い)」と題する民社党候補支持要請文書を被告の社内で技研の所長や管理職まで回覧させたり,また,被告役員や管理職が民社党候補者への支持を表明したり,候補者の後援会に加入したりしていた。
ウ 共産党の労働組合活動についての方針
 昭和48年当時,共産党では,労働組合が民社党や日本社会党への政党一党支持を表明することは組合員の思想信条を踏みにじるものであるとして,これを大きく取り上げており,労働組合内部にいる共産党員は,特定政党支持を表明する労働組合の大会決議等には積極的に反対すべきことを方針の一つとしていた。
 また,昭和45年に開催された共産党第11回党大会に対する中央委員会報告は,労働組合の大衆的な性格に反し,運動の前進の桎梏となっている特定政党支持や共産党排除の枠を外し,民主的な大衆運動の本来の発展の道に足を踏み出すことなどを当面の緊急の課題として提唱しており,また,昭和48年に開催された共産党第12回党大会では,特定政党支持義務づけの体制に固執しようとする日本社会党及び民社党の誤りを明らかにし,問題の急速な根本的解決を実現するために,一層系統的な努力を注がなければならないとされた。
エ 被告によるDに対する共産党脱退勧奨
 被告あるいはDの上司らは,昭和54年1月ころから,共産党員であったDに対し,以下のように共産党を脱退するよう勧めた。
 Dの上司であったH課長代理は,昭和54年1月25日,Dに対し,自己の個人的意見として,君やA君が共産党員であることは分かっている,A君はC先生から能力がないと言われ,原動・工作の仕事をしている,要するに君の考え方を改めてもらわねば,君はまともな仕事に就けない,要するに共産党員であることを辞めてほしいと言っている,資本主義体制下では,特に紡績は資本主義の牽引車であったし,労務管理は党員に厳しい,したがって,共産党員を辞めないと仕事上葬り去られる,君がどうしても党員を辞めないのならば私は必要な措置をとると述べた。
 H課長代理は,同年2月13日,Dに対し,会社としては組織として共産党員に対して厳しくやろうとしている,君は党を辞めない限り研究の仕事はできない,所長付で特定のグループに入ることになる,所長にしろ,E主任にしろ,君を何とか生かしたいと考えているなどと述べた。
 H課長代理は,同年3月8日,Dに対し,会社としては君が共産党員を辞めるか辞めないかで,仕事を干すか干さないかを決めるとの結論を出した,君に何の役にも立たない仕事をこれからずっとやらせるということは,会社にとって大きな損失である,何とか君を生かしたいと考えている,私としては,3月31日,つまり4月1日に君が帰るギリギリまで君に共産党を辞める説得をする,何をさせるか,これがまた大問題だ,B君は共産党員であり,今は岐阜の方へ隔離してあると述べた。なお,H課長代理は,それまで原告Bとは直接職務上の関係はなかった。
 倉紡労組大阪支部のG支部長は,同年3月20日,Dに対し,被告の現状についての説明をし,倉紡は今では業界6位程度になりそうである,各社とも減量経営をやってそれだけの利益を上げており,倉紡もやらなければ立ち遅れる,組合は全面的に協力しているなどと述べた。また,同席していた倉紡労組の書記長i(以下「i書記長」という。)は,Dに対し,あなたはまじめであり,仕事もできると聞いているので,党を辞め能力を生かして幹部になってほしいなどと述べた。なお,同日は倉紡労組の事務所の近くの喫茶店で話があったが,その際,H課長代理も同席していた。
 H課長代理は,同月27日,Dに対し,党を辞めることと思想信条を捨てるということは別のことと思う,このままでは多くの人が君を白い目で見る,多くの後輩が君を追い越していくことになる,君が研究者として立派な仕事をしたくても,それだけの地位を与えられなければできないはずだと述べた。同日の話は,組合事務所の近くの喫茶店でされたが,その際,i書記長及びG支部長も同席しており,G支部長は,Dに対し,Dが党を辞めると言ったら,10年,15年先に私たちが会ったとき,心から喜び会える時がくると思うと述べた。
 Dは,同年4月4日,H課長代理に,自分の思想信条の自由を守る旨を述べた。その翌日,Dは,喫茶店で技研のj所長(以下「j所長」という。)と会ったが,その際,j所長は,今すぐ党を辞めろとは言わない,3か月先に党を辞めてくれればよい,長くても半年後に辞めるという方向さえ示してくれれば,私は他の人を説得できるなどと述べた。
 j所長,H課長代理及びDは,同月9日,技研で面談したが,その際,j所長は,Dに対し,大阪大学での3年間の国内留学の内容を報告の形でまとめてほしい(Dは,昭和51年5月から,技研から大阪大学への国内留学を命じられ,これに従い国内留学をしていた。),報告を書いた後は,マーケティングの仕事を1か月程度手伝ってほしいと述べ,また,H課長代理は,Dは研究のグループに入ることはないと述べた。
 H課長代理は,同年6月18日,Dに対し,党を辞めれば今から研究職に戻し生化学の研究をやってもらう,党を辞めなければ,企業秘密の関係上,企画,調査のことをやってもらうわけにはいかない,共産党員であると企業秘密の関係上まともな仕事は与えられないと述べた。
 H課長代理は,昭和55年2月19日,Dに対し,会社は今までにも党員に内部情報を求めたことはない,そんなけちな考えはもっていない,公安情報には君の名前が載っているらしいからそれが消えるようにしてくれればよいと述べた。
 以上の事実によると,被告は,戦後間もなく被告の工場ごとに委員会をつくり,これが労働組合となるように,従来自らが行ってきた福利,厚生等を従業員に委ねて労働組合結成のために基盤をつくり,民主的で健全な労働組合の結成を期待するとして,労使協調路線をとる組合の育成を図ってきたのである。そのため,被告は,階級闘争主義的な活動を嫌悪し,そのような活動に参加した従業員を急進的あるいは教条的と評したり,左翼思想に基づく労働組合活動に対しては,強行的な措置をとるなどしていた。そして,労働組合総同盟の指導を受けた労働組合を民主的な労働組合であるとして,この労働組合とは労働協約を締結するに至っていた。この労働組合が倉紡労組の前身である。
 一方,被告が共産党員ないしその同調者であると認識した従業員については,倉紡労組内に共産党の影響が及ばないようにする手段として,後記のとおり,共産党員である従業員の組合役員候補の辞退を促したり,日本民主青年同盟(以下「民青」という。)や労演等の共産党関係の活動や行事に参加しないよう上司から働きかけ,さらには党からの脱退を促して,脱退しなければ閑職に就かせる旨述べたりし,後記のとおり,実際にも希望する職種とは全く異なる職種に配転したりした。
 また,倉紡労組は,組合の方針として,民社党一党支持を表明し,国政選挙や地方選挙の際に,民社党からの候補者を支援する旨を組合として決議し,被告においては,これを受けて,従業員に対し,倉紡労組が作成した民社党候補者指示要請の文書を積極的に回覧させ,役員及び管理職を後援会に加入させるなどしていた。
 このような事情からすると,被告は,倉紡労組と労使協調路線をとり,その一方で,倉紡労組とともに,共産党員をこれに敵対する者として,差別的に取り扱い,他の従業員が同党員あるいはその同調者となることを抑制することを労務政策の一つとしていたものと認められる。
 なお,原告Bの供述によると,「企業防衛模範解答」と題する書面(甲1)は,同原告が岡山工場勤務時に入手したというのであるが,本件において,この書面の作成者及び作成目的を認めるに足りる的確な証拠はなく,この書面をもって直ちに被告が共産党差別政策をとっていたと認めることはできない。
 ところで,被告は,共産党差別政策を全くとっていないと主張しているが,被告従業員のf(以下「f」という。)は,その具体的内容については証言当時記憶には残っていなかったものの,新入社員教育の際に共産党や民青に近づくなとの趣旨の教育を受けたことが認められる(証人f)し,また,Dが自ら記載したと証明する旨の書面が添付されている「Dメモ」と称する書面(甲2)によると,Dの上司がDに対して再三にわたり共産党を脱退するように勧奨していること,上司による脱退勧奨の際,倉紡労組の執行部の者が同席していることがそれぞれ認められる。
 他方,証人fの上記証言及び甲第2号証の記載内容を覆すに足りる証拠は存しない。しかも,被告が自ら作成した「倉敷紡績百年史」には,共産党の指導を受けた従業員や左翼的思想を急進的あるいは教条的と評し,これとは立場が異なる,倉紡労組の前身にあたる労働組合とのみ労働協約を締結したことが記載されている(甲75)ばかりでなく,被告において,役員や管理職に至るまで,倉紡労組作成の民社党候補者支持に積極的に協力しているのである(甲49,74)。
 このような事情を総合すると,被告は,倉紡労組の民社党支持に同調する一方,共産党員あるいはこれに同調する者に対しては,他の従業員に共産党の影響が及ばないようにする政策を実施していたものと認められる。
2 被告の人事制度について
 前提事実,証拠(甲78,79,乙1ないし6,33,34,37,証人k)及び弁論の全趣旨によると,以下の事実が認められる。
ア 大卒者の昇進について
 被告では,昭和41年に職能制度を制定し,その後数次の改定を行いながら,同制度を人事管理の支柱として運営してきた。
 大卒者に対する昇進運用の実情は,以下のとおりである。すなわち,大卒者は,まず入社時に見習職1級(M1)に位置づけられる。入社1年目の者に対しては人事考課は行われず,育成のための観察だけが行われる。入社2年目の者については,職能等級は1年目と同様に見習職1級に据え置かれる。これは別表4「第2- 社員昇進基準表」に基づくもので,M1からS3(専門職3級)への昇格についてその最低滞留必要年数が2年とされていることによる。
 入社2年目においては,同一職能等級の者だけ(すなわち見習職1級の者だけ)を考課対象群とした人事考課を実施する。
 入社3年目においては,通常は専門職3級(S3)に昇格する。なお,専門職の者に対する人事考課は,同1級ないし3級を同一考課対象群として実施される。
イ 目標管理制度について
 被告における目標管理制度は,人事考課の評定要素の一つである業績評定をする上で必要なものであり,会社全体の目標を効果的かつ効率的に達成するために会社から事業部,事業部から部(事業所),部から課,課から各従業員という一連の目標の連鎖を体系的に関連づけて作り出すことを目的とするもので,従業員各人ごとに半期ごとに実施されている。
 目標管理制度のシステムは,次のようなものである。すなわち,上司は対象期間の半期に入る前に自らの目標を部下に示し,それを受けた部下は上司の目標達成の手段となる目標を立案し,これを「目標カード」と称する書面に書き入れる。その際,上司は,下位階層(部下)の目標設定が上位階層の目標達成の手段となるように調整しなければならない。対象期間終了後は,部下は項目ごとに自己評価をしてこれを上司に提出し,上司はこれを評価してその後本人に返還する。
ウ 人事考課について
 被告において,人事考課は,人事管理のための判定資料として,賃金,賞与の決定,昇進などに利用されるほか,従業員の能力開発の資料とすることを目的としている。人事考課の内容は,以下のとおりである。
 業績評定
 業績評定は,目標管理の内容を中心に,部下の業績達成の程度と全体業績に対する貢献度を総合して評価する(日常業務での効率的な運営,処理も含む。)。
 なお,専門職従業員の評定については,相対評価方式による総合序列性の考えを採用している。すなわち,業績評定は,上記の目標管理において採り上げた目標を原則として二,三の業務実績の項目に一致させ,被評定者の組織の全体の業績からみて貢献度の高い業務の順に業務実績項目ごとに並べ,これを「達成度」,「難易度」,「余力度」,「外的条件の変化」について下記のような評定をし,考課評語aないしeを決定し,その上総合評定として「課別順位」を決定するものである。
 考課評語決定の代表的なケースを例示すると,次のとおりである。
    評定の基礎 評語
達成度   難易度 余力度 外的条件の変化    
(100%  大    余力大  悪化      a 
      以上)
 目標以上

    (80~
     100%以上) 中    余力なし    変化なし  c
ほぼ目標どおり

(80%未満) 小 援助必要    好転       e
 目標以下
 第二次評定者はこれを受けて,「部・事業所における順位」を決定し,最終的に「部・事業所評語」(AないしE)を決定する。
 また,「部・事業所評語」は,部・事業所ごとの人員分布によっておおむね次の分布になるように定められている。
 評 語     A    B    C    D    E
 人員比(%) 10   20   40   20   10
 能力評定
 能力評定は,被評定者の現職能等級いかんに関係なく,別表職能表に照らして評定する。
 評定は,原則として被評定者の顕在化した知識,能力について行う。したがって,被評定者の現職務を通じて把握することになる。能力評定は,絶対的評価方式によっている。
エ 被告の昇進実態について
 原告らが入社した前後5年を含め,昭和37年ないし昭和51年に被告に入社した者の入社後17年目時点の在職者の専門職滞留者の割合は,別表「入社17年時点における専門職滞留者」に記載のとおりである。
 昭和37年ないし昭和51年に被告に入社した者のうち,入社後一定時点において,管理職に昇進した者の割合は,別表「K職昇進状況(昭和37年入社~昭和51年入社)」に記載のとおりである。
 被告は,被告における昇進運用は能力主義によっており,例えば,専門職に昇格後,同一職掌内で一定数ごとに必ず昇等するわけではないし,専門職の者が必ず管理職へ昇格するというわけでもない,したがって,原告らの賃金と原告らと同期同学歴の従業員の賃金を比較してみても意味はない旨主張する。
 確かに,就業規則上,被告の人事制度としては,職能制度が定められ,従業員の職掌及び等級は,各人の職務と職務遂行能力に基づいて決められ,さらに,各職能等級ごとの一般定義,職掌別諸要素(能力,素質),基準職位は別表1ないし5に各記載のとおりである。したがって,この基準に従えば,同期同学歴者であっても,それのみをもって直ちに同一時期に昇等ないし昇格することにならない。しかし,別表6「原告Aと同期入社者(同学歴)の昇格・昇級状況」及び別表7「原告Bと同期入社者(同学歴)の昇格・昇級状況」(これら記載の事実については,弁論の全趣旨により認められる。)によると,その運用は,同期同学歴の従業員において,昇進の時期及び各職掌における滞留年数にある程度の幅はみられるものの,管理職3級,同2
級,同1級への各昇進については,おおむね経年的に昇等しているし,また,管理職3級,同2級,同1級への各昇進時までの勤続年数については,ほぼ各従業員につき各昇進までの平均勤続年数に近い勤続年数を経て昇等していること(別表6の「昇格・昇等時の勤続年数」欄の「平均昇格・昇等年数」欄及び別表7の「昇格・昇等時の勤続年数」欄の「平均年数」欄の記載から明らかである。)が認められる。
 このことからすると,被告においては,同期同学歴の従業員間では,昇進についてある程度の幅はあるが,おおむね経年的に昇進するような運用がされていたものと認められる。
 したがって,被告における人事制度は,職能制度を前提としつつ,その実際の運用については,ある程度の経年により昇進する,いわゆる年功序列的な運用が行われてきたということができる。
 そのため,不適正ないし不公平な人事考課がされない以上,経年により,等級や職位は,上位となっていくことになる。
 そして,証拠(乙4,5)によると,被告における基本賃金,一時金及び賞与は,原則として職掌及び等級が上位の者ほど高いことが認められる。
3 被告における原告Aの経歴等
 前提事実,証拠(甲2ないし25,27ないし33,35,36,48の1・2,52・53の各1・2,54ないし63,76,77,80,95ないし99,107ないし111,113,114,115の1ないし3,116の1ないし6,122,乙7ないし14,23,24の1・2,25,26の1・2,27ないし30,35の1・2,38,39の1・2,43,証人R,同k,同f,同g,同h,原告A本人)及び弁論の趣旨によると,以下の事実が認められる。
ア 被告入社後国内留学に至るまでの経緯
 原告Aの担当業務等
a 原告Aは,昭和42年に被告に入社し,昭和44年4月1日付けで技研補助研究員に,昭和45年4月1日付けで技研研究員になった。
 原告Aの担当は,高分子の架橋からみる綿構造の解析,防汚加工剤の開発,親水性高分子・疎水性高分子(主にビニル重合)の加工剤への応用,接触角測定による濡れ挙動の研究,フッ素樹脂合成の検討,光分解性ウレタン樹脂の開発,微生物分解性高分子の開発,縮合重合による特殊高分子(機能性高分子)の開発,新規フッ素及びリン含有高分子等の研究,排煙脱硝装置用触媒の研究等であった。
 当時化学系の研究員は約30名ほど在籍していたが,そのうち原告Aより年長の院卒者,学卒者は合わせて20名ほど在籍していた。原告Aは,各種研究を一人で担当していたわけではなく,研究員の一員として,原告Aよりも研究生活の長い研究員と協力して,その研究業務に従事していた。
 なお,原告Aは,昭和47年6月,専門職2級Bに昇等した。
b 原告Aは,岡山大学に国内留学を命ぜられるまでの間,以下のように被告が出願人である特許出願の発明者の一人として名を連ねた。 もっとも,うち3件については,拒絶査定がされ,うち2件は未審査取下げとなった。
 窒素酸化物の除去方法(昭和48年出願。発明者C教授,E,l及び原告A)。
 窒素酸化物の接触還元除去方法(同年出願。発明者同上)
 窒素酸化物の還元除去方法(昭和50年出願。発明者C教授,E,l,原告A及びm)
 窒素酸化物除去用触媒の製造方法(同年出願。発明者同上)
 窒素酸化物除去用触媒及びその製造方法(同年出願。発明者同上)
 排ガス中の窒素酸化物除去方法(昭和51年出願,発明者n,o,p及び原告A)
c 被告は,原告Aに対し,昭和49年8月15日付けで技研とエンジの兼務を命じ,従来大阪府寝屋川市所在の技研で行ってきた研究業務を大阪府枚方市所在のエンジ分室で行うよう指示した。被告は,昭和50年4月には,原告Aの技研とエンジの兼務を解き,技研からエンジへの異動を命じた。
d 原告Aの昭和50年9月20日付け自己申告表の上司記入欄には,当時原告Aの上司であった課長n(以下「n課長」という。)が,原告Aの作業完了時期が期待日時に対し大幅に遅れることがあった,原告Aの発想はやや独善的,観念的であるとして,このような問題点については,現業を体験させることによりそれを修正していくことが必要であると記載している。また,上司評価は,評定項目24項目中bが10(洞察力,創造力,理解力,知的能力,意欲を含む。),cが11,aが1,dが2(協調性と会社志向),eが0であった。
 国内留学に至るまでの原告Aの労働組合活動等について
 原告Aは,被告入社後の昭和45年に共産党に入党したが,入党後,被告の会社内において,技研の従業員に赤旗の購読を勧めるなどして読者を増やし,赤旗の読者による勉強会,機関誌の発行を行うなどした。
 また,原告Aは,昭和45年8月には,Dとともに職場会運営規則をつくり,技研に職場会を発足させ,昭和46年には,技研職場会の推薦により,倉紡労組大阪支部の支部委員に選出された。技研職場会は,昭和47年,賃上げ闘争などについて,倉紡労組大阪支部に要望等を出すようになり,また,独立して被告と交渉することができるようになった。そして,昭和48年には,原告A及びDが倉紡労組大阪支部執行委員選挙に立候補したところ,Dは当選し,原告Aは落選したものの,過半数にあたる得票を得た。
 Dは,昭和49年3月,倉紡労組第28回組合本部定期大会の代議員に選出され,技研職場会の議決と支部委員会での検討事項に基づき,大幅賃上げ要求,技研支部ないし分会としての独立,政党支持の自由に対する民社党強化のための入党促進等に反対する旨の発言をした。これに対し,倉紡労組本部は,倉紡労組の同年4月15日付け機関誌「クラボウ」に,「遊離した技研」という見出しで,倉紡労組内に大変な異分子ができつつあることを残念に思う,異分子というのは技研代議員のことである,参議院選に民社党候補者が立候補することになっているが,どこの支部も組合員の2倍以上の名簿登録割当てを消化しているのに技研は70ないし80名の組合員がいるのにわずか一人しか名簿登録をしておらず,これを代議員が自慢していた,
共産党は今後もますます勢力を拡大するだろう,それに負けない体質をわれわれはつくっていかなければならないと思うなどの内容の記事を掲載した。
 倉紡労組大阪支部は,昭和50年3月,倉紡労組大阪支部として社公民3党が推薦する大阪府知事選候補者の支持決定を決議することができず,同年11月の大阪市長選挙については,倉紡労組大阪支部執行部の提案した自社公民4党の推薦する候補者指示決議案が否決された。
 国内留学決定までの経緯
a 原告Aは,昭和49年ころ,政党支持の自由を否定した倉紡労組を批判する内容を記載した書面を掲示したが,そのとき,Eから,社長も原告Aのことは知っていると言われ,また,昭和50年ころ,当時取締役事業部長であったFから,原告Aはアカだと言われていると言われ,それと同じころ,n課長からは労務は君を嫌っているとも言われた。
b 昭和51年5月ころ,原告Aの自宅に,共産党地区委員を名乗る者から電話があった。電話の内容は,共産党の機関誌である赤旗をとってもらえないかというものであった。上記電話を誰がかけたかは明らかにはならなかったが,少なくとも共産党関係者からのものではなかった。
c 原告Aは,昭和50年に専門職2級A(S2A)に昇等した。原告Aは,同年4月以降は,エンジ開発グループに所属し,上司はn課長(開発グループ主任部員)であり,担当する業務は脱硝装置の触媒関係の研究であった。
d 被告は,昭和51年,原告Aに対して,岡山大学C研究室への国内留学を命じた。これに対し,原告Aは,幼い子供が3人おり,マンションを購入したばかりであったし,また,同僚から,国内留学は被告が原告Aを同年11月実施の組合選挙に立候補させないためではないかなどと言われたため,当初これを断るためにその旨を当時のエンジ部長である島達に伝えたが,同人は,原告Aを国内留学拒否者として扱うと述べた。そのため,原告Aは,倉紡労組を通じて,被告との間で,国内留学に当たっての条件として,国内留学の期間は1年とし,最大限1年6か月とする,労働条件は現状の条件を準用する,所属は現状のまま,国内留学終了時は大気開発部員触媒担当に復帰するなどの条件を取り決めた上で,国内留学に応じることにした。
 国内留学に当たり,被告から原告Aに対し,国内留学中にすべき業務についての具体的な指示はなく,留学の目的については,「触媒劣化の研究(触媒反応を中心とした技術の習得)」と定められただけであった。
イ 国内留学中の経緯
 原告Aは,国内留学に当たって,上記のような目的を定められたものの,実際にC研究室においては,初めの数か月間はエンジにいたときに担当していた触媒劣化と特許関係の申請業務を引き続き行っていた。また,C教授からは,実験の指示はあっても,特定のテーマについての研究の指示はなかった。そのため,原告Aは,触媒反応に関するテーマを自ら設定して研究を行っていた。
 原告Aは,昭和52年末,C教授から,学生の教育のためにもう1年残ってほしい旨言われた。これに対し,原告Aが被告との約束が翌年の春までである旨回答したところ,C教授は,原告Aに対し,悪いことは言わない,これは被告が言っていることである旨述べた。
 原告Aの国内留学は,当初最大限で1年6か月とされていたにもかかわらず,被告は,昭和53年2月,原告Aに対し,勤務態度及び研究の能力に問題があることや触媒反応を中心とする技術の習得・向上等を理由に国内留学を1年延長することを通告した。
 これに対し,原告Aは,国内留学の期間延長は当初の条件に反することから,倉紡労組の苦情処理委員会宛に,再延長のないことの確認と単身赴任手当の増額を求める申入書を提出した上で,国内留学の期間を1年延長することに応じた。
 しかし,期間延長後も,被告からもC教授からも研究に関する具体的な指示はなく,また期間延長理由とされた「触媒反応を中心とする技術習得・向上」についての指示・指導もなかった。そのため,原告Aは,学生がするような基礎的な実験に関わっていた。
 昭和53年9月,主任研究員であるEは,岡山大学の原告Aのもとを訪れた。原告Aは,自分に対して否定的な評価をされては困ると思い,自己申告表の自己評価項目の多くに抜群と記載として,これをEに提出した。しかし,Eは,原告Aに対し,原告Aは会社志向が抜群とは思われない,このままだとどうなるか分からないなどと述べた。Eは,原告Aの自己申告表の上司記入欄に「研究開発において最も要求される各種事項の観察,結果解析,実験の計画という点でかなり劣る。」,「自己過信が強く,これらの能力の欠如を冷静に見つめようとしない。創造性,積極性,向上心にも欠ける。能力,資質とも研究開発業務には適さない。」との記載をした。しかし,当時,原告Aは,Eのみならず,C教授からも,上記のような指摘を受けたこ
とはなかった。
 原告Aは,同年12月末,赴任休暇を取得して自宅に戻っていたこところ,同月28日,被告から原告に対し,翌29日午前中に技研に出勤するようにとの電報があった。
 そのため,原告Aは,同月29日に技研に出勤したところ,被告は,同日,原告Aに対し,昭和54年1月1日付けで技研総務課員を命じ,その旨の記載のある辞令通知を交付した。
 なお,被告から原告Aに対し,総務課への配転理由は告げられず,被告からの配転についての説明は,国内留学の成果があがらなかったというものであった。
 被告は,原告Aの留学終了に当たって,同原告に対し,研究結果報告の提出等を指示することはなかった。
ウ 総務課異動後の経緯
 総務課での原告Aの担当業務
a 原告の総務課異動後の職種は,「原動・工作補助」担当であった。「原動・工作補助」という職種は,被告が昭和54年1月に新たに設けた職種であった。なお,原告Aが総務課に配属されるまで,技研総務課に大学卒の管理職以外の者が配属された例は,特許担当の北田友彦が短期間配置された例があるだけであった。
b 原告Aが担当した業務の内容は,研究所から出るごみその他の可燃物,ガラス製品,金属片などを焼却炉やそれぞれの廃棄場所に車で運んだり,芝生刈り,植木の剪定,草抜き,ペンキ塗り,側溝の掃除,蛍光灯の取替え,内需の電気工事の手伝い,変電所整備,研究員から依頼のあった実験器具,装置,測定試験片を旋盤等の工作機械を使用して作る作業であった。
 その他,危険物倉庫において,数百以上の開封済みの試薬瓶を類別・処理する作業,研究所全館の廊下・階段の蛍光灯やそのかさのほこり落とし,掃除,真夏の芝生刈りなどもあった。
c 平成4年4月以降,原告Aの担当業務は変わり,新聞の切り抜き,翻訳,所長の会議での報告の下書きをワープロで清書すること等になった。また,その1か月後に1週間程度ではあるが,無機建材関係の研究の補助者として他の研究員と一緒に仕事をすることもあった。
 原告Aの総務課異動後の執務場所
a 原告Aが昭和54年1月に総務課に異動となった後の同原告の執務場所は,技研の研究工場の工務室であり,また,昭和59年5月以降の執務場所は,同工場の1階の便所の真上(2階)にある部屋(工務室)であった。この部屋では,総務課員のq,c及び原告Aの3名が執務を行っていた。この工務室は,工場内の一部に設置され,1階部分から鉄骨の階段を上っていくもので,部屋の広さは15平方メートル程度,上記3名の机のほか,作業机,ロッカーが置かれていた。クーラーは古い型のものが設置されていたが,暖房はストーブが用いられていた。
b 原告Aは,平成3年4月に担当業務が変わった際,研究工場2階の上記工務室から,技研本館のJ所長の前の席に執務場所も移動となった。
c 原告Aは,平成4年9月,技研本館の上記の席から,技研本館の南西角1階にある,元X線特殊物理実験室であった「lS3」と呼称される部屋の一角に移動となった。この部屋には窓がなく,原告Aが執務する一角は,机のほか,キャビネット,書棚,翻訳機が置かれていた。
 また,平成6年6月ころには,この部屋の原告Aのスペースが天井まで届くパーテーション(ついたて。上部部分はガラス)によって仕切られた。
d 被告は,平成10年6月ころ,原告Aの上記cの執務室をX線装置の設置のために改造し,新たにパーテーションを移動するなどして個人の執務スペースを設けることとなったため,原告Aは,同年6月30日付けの「総務課員(A)の業務場所について」と題する書面をQ社長に送付し,技研総務課での原告Aに対する「隔離的配置」を中止するとともに,X線装置の設置による新たな個人部屋の建設を中止し,原告Aが他の総務課従業員と同じ部屋で仕事をすることができるよう要望した。
e その後,被告は,同年7月22日に行われたX線装置設置のためのフロア改装の際,当初の改装予定を変更した。その結果,原告Aの執務場所は,技研の主任研究員と同じ部屋となった。
 原告Aが総務課異動後に取得した資格等
 原告Aは,総務課異動後,以下のような資格を取得した。
a 甲種危険物取扱者(昭和54年 大阪府)
b 第1種放射線取扱主任者(昭和55年 科学技術庁)
c エックス線作業主任者(昭和57年 京都労働基準局)
d ガス溶接作業主任者(昭和58年 兵庫労働基準局)
e 高圧ガス製造保安責任者(甲種化学)(平成9年 通商産業局)
     f フォークリフト運転(昭和55年 大阪車両教習所)
g アーク溶接特別教育(昭和57年 守口労働基準協会)
h ガス溶接技能講習(平成3年 関西技能開発センター)
 原告Aの目標カード
 原告Aの昭和62年11月から平成元年9月までの目標カードの上司評価には,以下の記載があった。
a 昭和62年11月から昭和63年3月まで
「情報を活かす工夫をして下さい。」
「管理範囲も広くなります。特に美環作りに注力の事」
「必要にせまられた目標を設定しチャレンジの事」
b 昭和63年4月から同年9月
「習得した知識,技術を,仕事に役立てる事が肝要,良いアイデアがあれば提案下さい。」
「関係者を動かし,疑問点を解消する努力をして下さい。」
「せっかくの自己啓発です。その道の第一人者,メシの喰える人,を目ざして進めて下さい。」
c 昭和63年10月から平成元年3月
「整理整頓に一層努力下さい。」
「安全について充分配慮下さい。」
「趣味,自己啓発で身を立てる時代となって来ました。大いに努力下さい。」
d 平成元年4月から同年9月
「下期は,鉄工,木工,工作関係の実務をこなせる様,外部研修等立案の事,当方でも研修先物色中」
「整理整頓,構内美化等,事前に気をまわして実施できる様にして下さい。」
「自分の将来に役立つ様努力して下さい。」
 原告Aの総務課異動後の労働組合活動
a 原告Aは,昭和55年7月,倉紡労組大阪支部書記長に立候補したが,当選には至らなかった。原告Aは,選挙の際,被告本社前及び社宅で立候補に当たっての抱負を記載したビラを配布するなどした。
b その後,原告Aは,倉紡労組推薦の労働安全衛生委員に立候補していたものの,倉紡労組の役員選挙については立候補していなかったが,昭和63年,賃上げ,長時間労働の解消等を抱負として掲げて,倉紡労組大阪支部の執行委員に立候補した。原告Aは,以後2年ごとに行われる倉紡労組大阪支部の役員選挙に毎回立候補した。
c 原告Aは,平成元年2月,北大阪労働基準監督署に,技研研究員の労働条件(休日,深夜労働,時間外労働に対する割増賃金の未払)と有給休暇取得の改善について申告をした。また,原告Aは,同年3月9日には技研門前で,同月14日には被告本社門前でそれぞれビラ配布活動を行った。
 被告においては,その後,研究員の労働条件が改善され,休日の研修に対する未払賃金が支払われることになった。
d 原告Aは,平成4年6月,北大阪労働基準監督署に,技研職場の労働条件,サービス残業との関係で,技研の女性従業員の早朝お茶くみの問題等について,再度申告をした。
 総務課異動後の原告Aに対する被告の対応
a 原告Aは,総務課異動後,研究工場の2階や技研本館のパーテーションで仕切られた場所を執務場所に指定されたことについて,上司や倉紡労組に対し,執務場所を替えるようたびたび申し入れたが,被告はこれに応じなかった。
 そこで,原告Aは,平成10年6月ころ,Q社長に対し,前記のとおり,原告Aに対する技研総務課での隔離的配置の中止及びX線装置設置による改装に伴う新たな個人部屋の建設を中止して,他の総務課従業員と同じ部屋で仕事ができるよう要望する内容の書面を送付した。被告あるいはQ社長からは,これに対する文書ないし口頭による回答はなかったが,同月7月に行われた改装の際は,前記のとおり,当初の予定とは異なる改装が行われ,その結果,原告Aは,技研の主任研究員と同じ部屋で執務を行うことになった。
 原告Aは,同年8月,Q社長に対し,原告Aの執務場所に一定の改善が加えられたとしてこれを感謝する内容の書面を送付した。
b 原告Aは,平成10年10月,Q社長に対し,「技術研究所総務課員Aに関わる諸問題の解決を要請する申し入れ書」と題する書面を送付した。この書面には,被告が原告Aに研究能力や専門知識等を生かすことができない業務を担当させていることは,原告Aにふさわしくない,原告Aの報酬についても,同原告の同期同学歴者に比較して著しく低く,原告Aは,差別的に取り扱われているから,このようなことを是正するよう求める旨の記載があった。
 上記書面に対しては,被告あるいはQ社長からは何の回答もなかったため,原告Aは,平成11年1月,Q社長に対し,再度上記書面と同様の内容を記載した書面を送付した。
 これに対し,被告人事部人事課は,平成11年1月18日,原告Aに対し,社長は個々の従業員の昇進問題に直接タッチしていない,人事部も,人事問題については,労働協約により労働組合を通じてのみ異議の申立てをすることができることになっているから,回答できる立場ではないと断った上で,原告Aについては,人事考課が現在まで昇進の条件を満たしていない,昭和39年から昭和48年までの10年間の大卒者148名中9名(13パーセント)がS職であるが,S職の19名も原告Aと同様に業績人事考課により同職にあるもので,個人的な性格や行動は関係ないとの回答をした。
 被告は,原告Aに対する被告の昇進運用が低調なものにとどまってきたのは,原告Aの働きぶりが他の従業員と比較して見劣りするからである旨主張しているので,この点について検討する。
ア 被告入社後国内留学に至るまで
 上記認定によると,原告Aは,入社後,補助研究員あるいは研究員として他の技研の研究員と共同で研究を行ってきたもので,その研究業務の成果の一つとして,特許を出願するなどしていた。ただ,特許を出願したものの,拒絶査定がされたり,後日権利が抹消されたものもあるが,研究業務は,原告Aひとりが行っていたものではなく,原告Aよりも研究経験の豊富な研究員とともに行っていたのであるから,そのような事情が直ちに原告Aの研究能力を否定する理由となるものではない。もっとも,上司からみると,原告Aについては,作業完了時期が期待日時に比して大幅に遅れることがあったり,発想が独善的,観念的であると評価される面もあったが,この点に関しては,原告Aの上司であったn課長は,現業の体験をさせることにより修
正する必要があると考えており,また,被告は,これを前提とした上で,原告Aを昭和47年6月に専門職2級Bに,昭和50年4月に専門職2級Aにそれぞれ昇等させたのであるから,原告Aに上記のような問題点があったとしても,これが昇進に影響を与えるほどのものではなかったということができる。
 そして,ほかに原告Aが国内留学に至るまでの技研あるいはエンジ分室における研究業務に関し,他の従業員と比較して,特に見劣りするような働きぶりであったと認めるに足りる証拠はない。
イ 国内留学中
 被告は,原告Aの国内留学が不首尾に終ったし,C教授から,原告Aについては,知識及び研究手法の習得も不満足な結果であり,研究開発業務には適さないとの報告があった旨主張する。
 しかし,そのような事実を裏付ける客観的証拠はなく,また,原告Aの国内留学中の研究内容を明らかにする証拠,被告あるいはC教授が原告Aに対してどのような指示を与えたか,さらには同時期の原告Aの人事考課がどうなっていたのかを明らかにする証拠もない。
 確かに,甲第17号証には原告Aの勤務態度,研究能力に問題がある旨の記載があるが,その具体的な内容は不明であり,将来的にも全く研究職を望むべくもない問題があったとまで認めることはできない。
ウ 総務課異動後
 被告は,原告Aが研究職に就けてもらえないという不満からか担当の原動・工作業務,翻訳業務についておよそ真摯に取り組んでいるとはいい難い働きぶりであると主張する。
 しかし,上記認定によると,総務課勤務後の原告Aの目標カードの上司評価欄には,被告が主張するような内容に関する記載はない。もっとも,証人Rは,原告Aの総務課員としての成績は総務課の専門職の従業員4名のうち最下位であったと証言し,また,乙第8号証,第13,第14号証(いずれも元上司等の陳述書)には,原告Aの働きぶりに問題がある旨の記載があるが,同証言を裏付けるような客観的証拠はない上,上記目標カードの記載からすると,原告Aの能力評価としていかなる理由からそのような評価になるのか明らかではなく,この点に関する証人Rの証言部分,上記乙号各証の記載部分はいずれも採用し難い。
 したがって,総務課員としての原告Aの働きぶりについては,他の従業員と比較して,高い評価を受けていたとはいえない反面,他の従業員と比較して,低い評価をすべき事由があったということはできない。
4 原告Bの被告における経歴等
 前提事実,証拠(甲2,39,41,64,65,81ないし91,92の1・2,100ないし104,112,117,乙15ないし21,23,24の1・2,25,26の1・2,27,28,36の1・2,42,証人k,同r,同j,同W,同f,同g,同h,原告B本人)及び弁論の趣旨によると,以下の事実が認められる。
ア 被告入社後岡山工場勤務時の経緯
 原告Bの担当業務
a 原告Bは,大学在学中である昭和45年3月に共産党に入党し,大学卒業後,昭和46年に被告に入社した。原告Bは,入社後3か月間は倉敷教習所での研修後,岡山工場ニット課に見習職として配属され,昭和47年,岡山工場ニット課員となった。原告Bは,研修終了後,見習職として,課員として運転業務を担当していたが,編成性測定器や風綿除去装置の実用試験も担当していた。
 被告は,昭和45年8月に新たにニット部門に取り組むこととし,昭和46年8月,その生産を開始した。当時,ニット工場は,立ち上げたばかりであったので,全員がニット生産の未経験者であり,予定の生産量に届かず,10パーセントもの不良品が出るような状況であった。当時はマニュアルもなく,問題が発生するたびに技術者一人ひとりが対策を考え,問題解決を目指しており,編成機械の大型化,高速化による不良反(天竺の縦筋に代表される。)の大量発生の問題については,問題解決に至るまでには多くの時間を費やし,天竺縦筋を封じ込めるために,昭和40年代後半から昭和50年代後半の約10年間を要するような状況であった。
b 原告Bは,昭和48年2月,見習職従業員が研究レポートを発表する場において,「編成性測定機の研究」というテーマのレポートの中で,測定方法をアナログ式からデジタル式にする旨の提案を行った。また,同じころ,原告Bは,社内教育用の教材である「製造概論ニット」の丸編部門を執筆した。
c 原告Bは,昭和48年4月,専門職3級となり,主に運転担任を任されるようになった。運転担任は,仕事の能率が上がるよう課員を監督する立場にあった。当時,岡山工場内には甲番と乙番の2グループがあり,原告Bは甲番の運転担任であった。グループは全体で20名強で構成され,運転担任はその責任者であった。当時の上司であったニット課U課長代理は,原告Bの昭和48年上期目標カードの上司評価欄において,改善提案に関しては「提案関係はやや低調でした。来期は頑張って下さい。」と記載したが,生産性の向上に関しては「甲番が常に先行して実績を作り乙番をリードしてくれた点は非常に立派です。来期も新しい目標に挑戦し頑張って下さい。」と記載し,甲番が乙番をリードしてくれた点は非常に立派であると評価した

 原告Bの共産党員としての活動及び労働組合活動等
a 原告Bの岡山工場勤務当時,同工場に共産党員はおらず,党員は原告Bのみであった。そこで,原告Bは,他の従業員に共産党への入党と赤旗の購読を勧め,その結果,1名を共産党に入党させ,また,赤旗の購読者も増やした。また,昭和48年ころ,岡山工場の若い男子従業員が民青に加入すると同時に,原告Bが中心となって4名で民青の班を結成し,共産党主催の赤旗まつりという行事に同僚2名を誘って参加したり,共産党の演説会には同期入社者を誘って参加したりしていた。
 また,原告Bは,他の従業員と積極的に交流を深め,岡山労演の幹事となり,月1回の公演を他の従業員五,六名と観劇したり,ハイキングやキャンプに行ったりし,岡山工場での壁新聞を作るグループにも積極的に参加した。原告Bの上司や勤労課の職員は,原告Bが赤旗を読んでいたことを知っており,原告Bは,工場長と麻雀をしている際,共産党と付き合うなと言われたり,昭和48年に労演のポスターを貼り出したところ,w勤労課長から,労演には共産党がバックについている,労演がどんな団体か知っているかと言われ,すぐポスターを外すよう言われたりした。
b 昭和48年5月6日,倉紡労組岡山支部の第27回定期大会が開催され,この大会の議案の一つ(第6号議案)として,翌年の参議院選挙で民社党の候補者を推薦するとの議案が挙げられた。原告Bは,共産党の方針に従い,第6号議案に対して反対の意見を述べた。すなわち,政党支持は自由にすべきであると発言し,対案として政党支持は自由とするとの決議を求めた。しかし,倉紡労組は,採決を行い,第6号議案は可決された。
c 原告Bが上記発言をした翌日である同年5月7日,原告Bが出社すると,U課長代理は,原告Bを別室に呼び,前日のような発言をするなら相当な覚悟が必要である,さらには,ニットと加工糸の担当者は教育し直さなければならないと言われたと述べた。原告Bは,U課長代理から,同年6月1日にも,組合批判や組織に関することは考えていても話さないようになどと言われた。また,U課長代理は,同月17日,原告Bに対し,まだ労務や人事には原告Bのことは話していない,他の者を洗脳するな,君は赤旗を読んでいるようだが,どこで手に入れるのかと尋ねた。その後,原告Bは,U課長代理から,同原告が労演に他の従業員を誘っていたことについて,労演には一人で行くよう言われた。
d 昭和49年5月12日,倉紡労組岡山支部の第28回定期大会が開催され,この大会の議案の一つとして,統一地方選挙で民社党県会議員の候補者を推薦する決議案が挙げられた。これに対し,原告Bは,共産党の方針に従い,労働組合の政党一党支持に反対するとの発言をした。
 原告Bに対する配転命令
 被告は,昭和49年5月15日,原告Bに対し,突然大阪本社の技術サービス部技術サービス第2課(なお,同部同課は,昭和50年の被告の組織変更により,加工技術部編成課に改称された。)への配転を命じた。この配転は,通常4月と10月に行われる定期異動とは異なるものであった。事前に配転に関して原告Bに対する意向確認はなく,特に定期の異動時期ではないにもかかわらず,原告Bを配転させなければならない必要性もなかった。
 原告Bが上記配転により岡山工場を離れる際,岡山工場の丙工場長は,原告Bに対し,君も若い人と一緒に働いたためそうなったと思うが今後は自分の立場を考えて行動するようにと述べた。
イ 大阪本社異動後の経緯
 原告Bの担当業務
a 原告Bは,昭和49年6月1日付けで大阪本社技術サービス部技術サービス第2課に異動となった。
 同課での原告Bの担当は,外注工場の生産管理,品質管理であった。
 原告Bは,昭和49年上期部門目標の結果では,外注交編C反率5パーセント以下の目標に対し,4.6パーセントの成果を達成し,同原告の上司であったW課長は,達成率100パーセント,開発80パーセント,交編技術の確立80パーセントとこれを評価した。
 その後,昭和50年5月から同年10月の目標カードにおいて,原告BがC反率を更に減少させたことにつき,W課長は,これを評価し,原告Bがこの点を上記目標カードに自己評価で達成率90パーセントと記載していたのに対して,上司評価欄に「成果上がり満足」,達成率欄に「100%」と記載した。
b 原告Bは,昭和51年4月1日,専門職2級Bに昇等した。
 原告Bの共産党員の活動及び労働組合活動等
a 原告Bは,大阪本社への転勤後である昭和49年秋ころ,倉紡労組大阪支部の技術サービス部関係の支部委員をしていたxから,倉紡労組の支部委員にならないかと打診された。原告Bは,これに応じ,支部委員に立候補したが,信任投票を行う直前,直属の上司であったW課長から,支部委員候補を辞めるよう説得された。原告Bは,このような会社による干渉は不当であると思ったが,まだ仕事を教えてもらわなければならない立場であったため,特にW課長に反駁することなく,W課長の説得に応じて支部委員候補を辞退した。
b 原告Bは,昭和49年から昭和52年にかけて,共産党の繊維関係の支部長をした。このころ,原告Bは,他の繊維関係業者に繊維労働者向けのビラや共産党のビラを配布したりしたほか,被告内の従業員に声をかけるなどして,赤旗の購読を呼びかけたりし,各種選挙でも共産党の躍進のため尽力した。その結果,大阪本社時代に,原告Bが増やした赤旗の定期購読者は5名となった。
 さらに,原告Bは,共産党の方針に基づき,繊維関係の労働者でつくっているセンイ労働者・労働組合連絡会に加入し,学習会などに参加したり,大阪労演の幹事役としてチケットの配布などを中心的に行うなどした。
c W課長は,昭和50年ころ,原告Bに対し,もう君をかばいきれなくなった,寮で赤旗を読んでいることを知っていると述べた。
 また,原告Bは,昭和51年2月に結婚したが,その直前に,W課長と綿糸相場の話をした際,原告Bが相場制度がなくなるといいですねと資本主義経済を否定するような発言をしたところ,W課長は,君のような考えを持った人の結婚式には出たくないと述べていったんは出席することにしていた原告Bの結婚式への出席を断った。なお,原告Bの結婚式には,Z加工技術部長が出席した。
d 昭和51年5月上旬ころ,原告Bの自宅に,共産党伏見地区委員会の田中と名乗る者から電話があった。この電話には,原告Bの妻が応対したが,電話の内容は,赤旗の購読者を増やしてほしいというものであった。妻からこの話を聞いた原告Bは,自分が所属していない地区委員会がそのような依頼の電話をしてくるのはおかしいと思い,伏見地区委員会に電話をかけて確認したところ,そのような名前の人物は伏見地区委員会にはいなかった。
 原告Bの昭和51年9月20日付けの自己申告表の上司記入欄には,以下の記載があった。なお,当時の上司は,部長がZ,課長がWであった。
「ニッターとの意思疎通が深くなって来ている。技術面及び管理面で実際的な把握にやや不足がある。結果の処理に未熟さがみられる。」
「対人交渉に未熟さがあり最適ではないが,今後の成長にまつ。」
「①ニッターでの状況把握を合理的に実施するよう指導中,②出張時点での協議及び確認後,本社に於て関係担当の交渉を十分に行うこと」
 また,素質に関する評価は,「創造力」,「粘り強い」,「几帳面」の3項目がb評価であるほかは,18項目がc評価,3項目がd評価であった。
 原告Bに対する浜松への配転命令
 被告は,昭和52年4月,原告Bに対し,浜松での駐在勤務を命じた。
 駐在の目的は,当時,ニットのブランド物が好況となり,生産量の拡大と品質の向上が強く求められるようになった一方,コスト低減の要求が高まったことから,被告では,岡山工場での自家生産と和歌山産地に加え,従来から織物の産地であった遠州産地をニットの第三の生産基地として拡大する方針の下,遠州産地は和歌山産地より遠方であり,技術的に遅れているとの認識もあったことから,技術駐在員を配置する必要が生じたためであった。
 原告Bは,W課長に対し,浜松の産地との連絡は長期出張等の方法で足りるのではないかと述べたが,配転は変更されなかった。
ウ 浜松駐在以降の経緯
 原告Bの担当業務等
a 原告Bは,昭和52年4月16日付けで浜松駐在を命ぜられた。
 原告Bの担当は,産元の各工場を巡回して,品質管理,生産管理等を行うもので,生産計画,検反立会い,立会い結果の調査,報告等であった。
 原告Bは,編成課所属のまま浜松駐在員となったが,浜松駐在中は,編成課の会議に招集されることはなく,会議に出席することはなかった。
b W課長は,昭和53年3月29日付けの「業務指示」と題する書面を原告Bに送付した。この書面には,現場にあっての実施充実の点から,原告Bの理論に固執する傾向は,当社員の姿勢として不適格である,業務報告を迅速,正確にすることなどの記載があった。
 もっとも,原告Bの浜松駐在3年目の時点で,浜松におけるC反発生率は減少していた。この間,原告Bの業務に関する評価は,特段問題がなかった。
c 昭和61年,被告では大規模な組織変更が行われ,原告Bは,綿合繊製品部ニット課浜松駐在となった。また,昭和62年にも組織変更が行われ,原告Bは,ニット寝装部ニット課員となった。
d 原告Bは,同年6月ころ,被告に対し,浜松駐在を廃止するよう求めた。また,新しく上司となったニット課長yに対しても同様のことを述べた。原告Bは,岐阜か岡山での勤務を希望したが,同課長は,原告Bに業務上のトラブルがあったこと及び関係者が語りたがらないことがあるとの理由で,被告のニット関係の多くの受注をしている繊維商社であるクリエスター(大阪市所在)への出向を指示した。
 なお,遠州産地をまとめていたニット会社の撤退などが響き,被告は遠州産地での生産を断念した。そのため,被告は,浜松にニット課の駐在員を置いておく業務上の必要性がなくなったので,浜松駐在を廃止することとした。
e そして,被告は,昭和62年7月16日付けで,原告Bに対し,クリエスターへの出向を命じた。
 原告Bの昭和54年9月20日付けの自己申告表の上司記入欄には,以下の記載があった。なお,当時の上司は,部長がZ,課長がWであった。
「特にトラブルなし」
(適している仕事)「大学研究室或いは教師」
「利益追求より研究開発の理論追求へ向いている。」
 また,素質に関する評価は,10項目がc評価,14項目がd評価であった。
 原告Bの共産党員としての活動等
 浜松においては,職場に共産党員がいなかったため,原告Bは,地域での共産党関係の活動に力を入れていた。原告Bは,共産党の遠州浜団地支部長,西部地区委員会の役員に選任され,各種選挙に出るほか,地域に共産党の考え方を広める活動を積極的に行った。また,遠州浜公団住宅での自治会結成に参加し,子供が通っていた保育園の保護者会の会長を務めたりした。
エ クリエスター出向以降の経緯
 原告Bは,昭和62年7月,クリエスター出向に際し,被告本社を訪れたが,その際,アパレル部のz課長から,君は有名人である旨言われ,また,甲部長から,こんなに若いのに君は出向するのかと言われた。また,出向先のクリエスターの社長からは,君の思想傾向は聞いていると言われた。
 クリエスター出向後の原告Bの担当業務は,主に先染ニットの編地分析,柄設計,生産管理,品質管理であった。
 原告Bは,その間,パソコンを利用して,データベースで業務用ソフトウェアを作成するなどした。また,ニットデザイン業務を紹介するパンフレットも作成した。
 もっとも,原告Bは,困難な仕事への対応が悪いことがあり,営業からの依頼品が指定する納期に間に合わず,課長であったrがこれに対応したこともあった。
 原告Bは,クリエスター出向後,日本紡績協会・日本綿業振興会などが主催する「コットンの日Tシャツデザインコンテスト」で優秀賞を受賞したり,繊維製品品質管理士試験3科目に合格したりした。
 クリエスター出向後の原告Bの目標カードの上司評価欄の記載は,以下のとおりである。なお,上司は,いずれもrである。
a 平成7年4月から同年9月まで
(外注生産の)「販売の量が少いのでクラボウ側の営業努力も行いますが,販売員に対する納期対応,スペース対応よろしく。達成評価95%」
「販売に継がり売上げ実績となる成果を期待します。ベーシックな生地でのアイデアを開発下さい。達成評価同意」(なお,この同意の対象となる原告Bの自己評価は80%である。)
b 平成7年10月から平成8年3月まで
「パソコン利用による管理資料作成の成果は評価します。販売より希望する生産管理,納期対応について確実かつ柔軟な対応を希望します。評価90%」
「定番となり得るヒット商品の提案を期待しています。評価80%」
c 平成8年4月から同年9月まで
「業務のマニュアル化,技術移転については評価します。販売より希望する生産管理,納期対応がクリエスターとしてクラボウへの成果を期待します。90%」
「実提案による新しい編地又は企画が新商売として継がる実績を期待します。70%」
 原告Bは,平成10年11月,被告繊維製品部長ニット課長宛で,「要望書」と題する書面を送付した。この書面には,原告BはS2の職能等級のまま23年になるが,年齢と経験・能力にふさわしい職能等級に上げてほしい,職能等級の凍結による低い賃金を是正し,社内的水準との差額を過去に遡って補 してほしい旨の記載があった。
 これに対し,被告人事部人事課は,同年12月9日,本来個々の昇進問題について回答する必要はなく,昇進を含む人事問題全般については労働協約に定めがあるとおり労働組合を通じて異議の申立てができることになっているが,誤解を解く必要があると断った上で,原告Bの人事考課は昇進の条件を満たしていないと回答した。
 被告は,原告Bに対する被告の昇進運用が低調なものにとどまってきたのは,原告Bの働きぶりが他の従業員と比較して見劣りするからである旨主張するので,この点について検討する。
ア 岡山工場勤務時
 上記認定によると,原告Bは,入社後,被告が新たにニット部門に取り組む中,日常の業務のほか,レポートの発表,教材の執筆等を行なっていた。もっとも,岡山工場勤務は,原告Bが被告に入社して初めての職場であり,入社後あまり年数も経っていないことからすると,同原告がニット部門を総括するような立場にあったわけではないが,担当者として上司からそれなりの評価も受けていたということができる。他方,原告Bの岡山工場勤務時の働きぶりについて,他の従業員と比較して,見劣りするような点があったと認めるに足りる証拠はない。
 この点に関し,被告は,原告Bがその一部を執筆した「製造概論ニット」については取り立ててその業績をいうほどのものではないと主張するが,同書の外部的な評価はさておき,これを執筆したこと自体は何ら人事考課上,否定的に解すべきものとは考えられない。また,被告は,原告Bが岡山工場での運転担任時,運転担任として不適格であったと主張し,乙第15号証(rの陳述書)にはこれに副う記載があるが,被告は,目標カードにおいて,原告Bの運転担任としての仕事ぶりを積極的に評価していることからすると,上記認定に反する乙第15号証の記載部分を採用することはできない。
 以上の点からすると,岡山工場勤務時の原告Bの働きぶりについては,他の従業員と比較して特に劣る点はなかったということができる。
イ 大阪本社勤務時
 被告は,原告Bが,大阪本社勤務時の昭和50年ころ,交編ニットの設計ミスによる不良反を大量に発生させるミスを犯し,損失を発生させたにもかかわらず,反省の態度が全く見られなかったと主張し,証人Wの証言や乙第19号証(村上伸夫の陳述書)の記載にはこれに副う部分がある。
 しかし,原告Bのミスの具体的内容やその時期を明らかにする客観的な証拠はないし,証人Wも,乙第19号証に記載された件は,原告Bの設計ミスではなく,産元会社に問題があった旨証言しており,原告Bがそもそも被告が主張するようなミスを犯したといえるかどうかも疑わしい。
 そして,被告は,原告Bを昭和51年に専門職2級Bに昇等させたのであるから,仮に原告Bに被告主張のようなミスがあったとしても,人事考課上,障害となるものではなかったということができる。
 結局のところ,原告Bの大阪本社勤務時,原告Bの働きぶりについて,特に人事考課上問題となる点はなかったといえる。
ウ 浜松駐在時
 被告は,原告Bが浜松駐在時に大量の不良反を発生させ,また,上司から自己中心的であるなどの指摘を受けており,原告Bは仕事に対する責任感が欠如していた旨主張する。
 確かに,証拠(甲39,原告B本人)によると,原告Bは,浜松駐在時,上司であったW課長から理論に固執する傾向は被告の社員の姿勢として不適格であるとの指摘を受けていたこと,そして,これについて,原告Bは,W課長の指摘を聞く必要はないと考えていたことが認められる。このような原告Bの態度からすると,W課長が原告Bを自己中心的と評価してもやむを得ない面があるといえる。
 一方,乙第15号証,第18号証,第20,第21号証(いずれも元上司等の陳述書)には,原告Bが浜松駐在時,次々とミスを発生させたとの記載があり,証人r及び同Wも同趣旨の証言をしているが,ミスの具体的内容は全く不明であり,原告Bの人事考課にいかなる影響を及ぼしたのかを明らかにする証拠もない。
 結局,浜松駐在時,原告Bの勤務姿勢に全く問題がなかったとまでいうことはできないが,他の従業員との比較で,人事考課上,著しく低く評価するほどのものであったということもできない。
エ クリエスター出向後
 被告は,クリエスター出向後の原告Bの仕事ぶりについて,新商品の提案は机上の空論的なものが多く実際の商売にはつながらなかった,営業サイドに対する対応が悪い,具体的に表明し得るような仕事上の実績はないなどと主張し,原告Bが取得した資格について,趣味の範疇にとどまるものであるとも主張する。
 しかし,原告Bが取得した資格について,これが業務上の資格であったにせよ,あるいは趣味の範疇にとどまるものであったにせよ,これを人事考課上,否定的に解する根拠はない。また,証拠(乙15,17)によると,原告Bには営業サイドからの要望に応えようとの姿勢がみられず,その対応は必ずしも十分であるとはいえない面があり,営業サイドは,原告Bに好感を抱いてはいなかったことが認められるが,一方で,被告は,パソコン利用による管理資料の作成等については評価をしており,上記営業サイドに対する対応が人事考課上どのように評価されたのかは不明である。
 しかも,そもそも,原告Bのクリエスター出向後の目標管理がどのように行われていたか明らかではない。すなわち,原告Bは,クリエスター出向後,同原告の目標カードは作成されていないというのであり(甲112),人事考課において,目標管理制度は,人事考課の評定要素の一つである業績評定をする上で必要なものである(乙6)にもかかわらず,これが作成されていない上,証人rも年に2回原告Bと面談する程度であるが,これは人事考課には関係がない旨証言していることからすると,クリエスター出向後の原告Bの人事考課がどのように行われていたか明らかではなく,ひいては,人事考課が適正に行われていたのかどうかも明らかではない。
 このように,クリエスター出向後の原告Bの仕事ぶりを明らかにする証拠はなく,原告Bが他の従業員と比較して,特に見劣りするような事情を認めることはできない。
5 原告らが共産党員であることの被告の認識について
 原告Aが共産党員であることの被告の認識
 前記1及び3で認定した事実によると,被告は,原告Aが共産党員であることを遅くとも昭和51年5月までには,明確に認識していたとものということができる。
 すなわち,昭和49年に開催された倉紡労組第28回定期大会におけるDの政党支持の自由を主張する旨の発言に対し,倉紡労組は,この発言を批判する内容の記事を同組合の機関誌に掲載し,その中で,「共産党は今後ますます勢力を拡大するだろう。」と記載してDが共産党員であることの認識を明らかにしている。このような記載のある組合機関誌が,被告内において,被告の労務担当者等の目に触れなかったとは考えられないし,また,原告Aは,Dとともに,積極的に技研において職場会をつくるなど行動していたのである。さらに,原告Aは,昭和49年ころ,倉紡労組の役員選挙に立候補した際,政党支持の自由を否定した倉紡労組を批判する内容を記載した書面を掲示したが,そのとき,管理職であるEが,原告Aに対し,社長も原告A
のことは知っていると発言し,さらには,昭和50年ころに当時取締役事業部長であったFが,原告Aはアカだといわれていると発言し,原告の上司のn課長が,同じころ,労務は君を嫌っていると発言したのである。これらの事実に照らすと,上記各発言があったころ,被告は,原告Aが共産党員であることを既に認識していたものと認められる。そして,その後である昭和54年,H課長代理は,Dに対し,原告Aが共産党員であることは分かっている旨述べたのである。以上によると,被告は,遅くとも原告Aの主張する前記時期には,原告Aが共産党員であると認識していたと認めることができる。
 もっとも,被告は,昭和50年4月,原告Aを昇進させているが,これは専門職2級Aへの昇等にとどまるし,被告が翌年に同原告を国内留学をさせたことに照らせば,上記昇進の時点では,被告としては,組合活動等から隔離すれば同原告が転向する余地もあるとみていたとも考えられることからすると,上記昇進の事実が共産党員であると認識していることの妨げになるものではない。
 なお,原告Aは,被告が原告Aを共産党員であると認識していた事情の一つとして,昭和55年5月ころに原告Aの自宅に共産党を名乗る者から電話があったことを挙げるが,上記3で認定したとおり,同時期に原告A宅に共産党員を名乗る者から電話があったことは認められるものの,結局,誰がこの電話をかけたかは原告A自身も把握しておらず,この電話の主を特定し得る証拠も存しないから,被告ないしその関係者がこの電話をかけたと認めることはできない。したがって,原告A宅に上記のような電話があったことを被告が原告Aを共産党員であると認識していたことを証する事実の一つとみることはできない。
 原告Bが共産党員であることの被告の認識
 前記1及び4で認定した事実によると,被告は,原告Bが共産党員であることを遅くとも昭和51年5月までには,明確に認識していたということができる。
 すなわち,原告Bは,岡山工場勤務時,労演のポスターを掲示した際,当時の勤労課長から労演のバックには共産党がついていると言われ,ポスターを外すように言われた。また,昭和48年に開催された倉紡労組岡山支部の第27回定期大会において,原告Bが参議院選挙に関し,民社党候補者を推薦するとの議案に対して反対の意見を述べた後,原告Bの上司であったU課長代理は,原告Bに対し,赤旗をどこで手に入れるのか,あるいは,労演には一人で行くようにと述べた。このような事実からすると,被告は,上記発言があったころ,原告Bが共産党員であることを既に認識していたものと認められる。さらに,原告Bとは直接職務上の関係がなかったH課長代理は,昭和54年,Dに対し,原告Bが共産党員である旨を述べていた。以上によ
ると,被告は,遅くとも原告Bの主張する前記時期には,原告Bが共産党員であると認識していたものと認めることができる。
 もっとも,被告は,昭和51年4月,原告Bを昇進させているが,これは,専門職の最下位である同3級から同2級Bへの昇等にすぎないから,上記昇進の事実が前記認定を妨げるものではない。
 なお,上記4の認定事実によると,原告B宅にも昭和55年5月に原告Aの場合と同様に共産党員と名乗る者から電話があったことが認められるものの,これを被告ないしその関係者がかけたと認めるに足りる証拠はなく,原告B宅に上記のような電話があったことを被告において原告Bが共産党員であると認識していたことを証する事実の一つとみることはできない。
6 被告の原告らに対する差別意思及び差別的処遇等について
 被告の共産党員に対する差別意思について
 被告における労務政策一般については,前記1に記載したとおりである。被告は,戦後間もなくから労使協調路線の組合結成を意図していた一方で,いわゆる左翼的思想を嫌悪し,倉紡労組結成後は,倉紡労組に共産党の影響が及ぶことを防ぐために,共産党員である従業員に対する倉紡労組役員選挙への立候補を辞退させたり,共産党を脱退しなければ仕事上の不利益を与える旨申し渡して脱退勧奨をしたりしていた。
 これらの事実からすると,被告は,共産党及び同党員を嫌悪し,被告に対する共産党及び同党員の影響を極力防止すべく,共産党員である従業員に対して,他の従業員とは異なる取扱いをしていたことが認められるのであって,被告は,共産党員に対する差別意思を有しているものと認められる。
 被告による原告Aに対する差別的処遇
 上記1ないし3及び5の事実を前提に,被告による原告Aに対する差別的処遇の有無について検討する。
ア 国内留学に至るまでの原告Aの業績は,技研の他の研究員と比較して特段卓越していたとまではいうことはできないが,反面,これよりも劣っていたということもできず,技研において,格別他の従業員と比較して低い評価を受けるような事情はなかったといえる。もっとも,原告Aの上司は,原告Aの研究手法等について,発想が独善的あるいは観念的であると評価し,現業での体験の必要性を挙げてはいたものの,技研勤務時に,専門職2級A,専門職2級Bに昇等しているのであるから,このような事情ないし評価は,人事考課そのものには影響を与えていなかったものといえる。
 そして,被告は,原告Aには現業の体験の必要性があるとしながら,現業とは全く異なる,主として研究を行うことになる国内留学を命じており,国内留学の目的は一応「触媒劣化の研究」とされてはいたが,被告のみならず,留学中に指導教授からも何の指示もなく,留学終了後,被告に対して何の研究報告もさせていないなど,その目的及び業務上の必要性は明らかではない。むしろ,国内留学には多額の費用が必要になると推認されるところ,留学の目的も明確ではなく,国内留学中の具体的研究結果も出ていないこと,留学期間を延長しておきながら,途中で留学を打ち切ったこと,留学の前年に原告Aは専門職2級Aに昇等していること,また,原告Aに対するC教授の評価がどのようにされていたか全く不明であること,原告Aと同様に共
産党員であるDが原告Aと同じころに大阪大学への国内留学を命じられていること,Dは国内留学終了直前に研究職に戻るためには共産党を脱退することが必要である旨被告から説得を受けていたことなどを総合すると,原告Aに対する国内留学を命じた理由は,原告Aの業績ないし能力以外の点にあるといわざるを得ない。
イ 被告は,原告Aに対し,国内留学の期間を打ち切って技研総務課勤務を命じたが,その理由については,国内留学の成果が上がらなかったとするだけで,配転理由は明らかにされなかった。しかし,国内留学中の原告Aの研究状況や研究成果,さらには指導教授の評価も全く不明である上,被告は,原告Aに対し,国内留学の結果報告も求めず,いかなる理由をもって成果が上がらないとしているのかも明らかではない。原告Aが「研究職」との職種限定で被告に雇用されたと認めるに足りる証拠はないものの,少なくとも,原告Aは,被告に入社後,技研に配属されてからは国内留学を含めて研究職に従事してきたのであるから,それまでと全く異なる業務への配転に当たっては,それなりの業務上の必要性及び人選の合理性についての説明があって
しかるべきであるが,被告は,原告に対し,国内留学の成果が上がっていないと説明するだけであったし,そもそも,いかなる理由で,原告Aを総務課に配転したかを明らかにする証拠もない。
ウ 総務課員としての原告Aの働きぶりについては,他の従業員と比較して抜群の評価を受けていたとはいえない反面,特に問題があったとまでいうことができないことは,先に説示したとおりである。
エ 原告Aの総務課異動後の執務環境についてみても,異動当時の執務場所であった工務室は,他の従業員と同室で一緒に執務を行っていたとはいえ,被告が主張するような良好な執務環境であったとはいい難いし,また,「1S3」と呼称される部屋で執務していた際には,平成6年6月以降,原告Aのスペースだけがパーテーションで仕切られたが,このような仕切りをする必要があったことを明らかにする証拠はなく,これを原告Aの主張のように「隔離部屋」と称するかどうかはともかく,不必要な措置であるといわざるを得ない。
オ 原告Aについて,人事考課上,特段大きく否定的に評価されるような事情が見受けられないないことは前記のとおりであり,それにもかかわらず,原告Aは,昭和50年4月に専門職2級Aに昇等して以来,全く昇進しておらず,被告から低い評価を受け,目的も不明のまま国内留学を命ぜられ,さらには,業務上の必要性もなく総務課に配属され,良好とはいい難い執務環境の中で執務を行わざるを得ない状況に置かれたことは,上記2で認定した被告の人事制度に照らすと,原告Aに対する差別的処遇であるといわなければならない。これらの事情に加え,被告が共産党員を嫌悪し,共産党員である従業員に対して脱退勧奨を行い,閑職に就かせるなど処遇上不利益を与える労務政策を有しており,原告Aも共産党員であるとの認識を有しているこ
とからすると,被告は,原告Aに対し,原告Aが共産党員であることを理由として,上記のような処遇を行ってきたものと推認せざるを得ない。
 なお,原告Aは,昭和49年9月に技研とエンジの兼務となり,昭和50年4月に上記兼務を解かれ,エンジ所属となり,昭和52年に再び技研の所属となったことも,原告Aに対する差別的処遇であると主張しているが,原告Aの上記異動は,エンジの拡大・縮小に伴うものであり,多くの従業員がこれに伴って異動している中での一事例であると認められる(乙10)から,上記異動が差別的な処遇であるということはできない。
 被告による原告Bに対する差別的処遇
 上記1,2,4及び5の事実を前提に,被告による原告Bに対する差別的処遇の有無について検討する。
ア 被告Bには,被告入社以降,岡山工場勤務時及び大阪本社勤務時において,他の従業員と比較して,特に問題があると評価されるような点はなく,人事考課上,特に否定的に評価されるような事情もなかった。そのため,原告Bは,昭和51年4月に専門職2級Bに昇等している。
イ 原告Bの岡山工場から大阪本社への異動は,通常の定期異動ではないのに,事前の意向確認もなく,配転の必要性もないまま行われたこと,原告Bは,倉紡労組岡山支部の第28回定期大会において,倉紡労組の特定政党支持に反対する旨を述べており,上記異動はそれから間もなく命ぜられていること,原告Bは,昭和48年に開催された倉紡労組岡山支部の定期大会においても,政党支持を自由にすべきである旨を述べたが,その翌日に上司に別室に呼ばれて発言内容について注意を促されたことからすると,上記異動は,原告Bの第28回定期大会での発言と全く無関係ではなく,原告Bの業績や業務上の必要性の点からされたものではないと推認せざるを得ない。
ウ その後,被告は,原告Bに対し,浜松駐在勤務を命じているが,全く業務上の必要性のない場所に駐在員を置くとは考えにくい(ちなみに,被告は,原告Bがクリエスターに出向したころには,業務上の必要性がなくなったことを理由に浜松駐在を廃止している。)から,浜松に駐在員を置く必要性が生産基地の拡大にあったことは一応認められるものの,一方で,H課長代理は,前記のとおり,原告Bは共産党員であり,隔離してある旨述べていること,原告Bを編成課に所属させているにもかかわらず,原告Bを同課の会議には出席させていなかったことからすると,「隔離」と表現するかどうかは別として,少なくとも上記浜松駐在は,原告Bを大阪本社以外の勤務地で勤務させることがその目的の一つであったと認められる。
エ 原告Bの浜松駐在時及びクリエスター出向後の勤務状況について,人事考課上,これが特段低く評価されるような事情がないことは,先に説示したとおりである。
 しかも,クリエスター出向後の原告Bの人事考課がどのように行われていたかは明らかではなく,それにもかかわらず,被告は,原告Bに対し,「E評価」の査定を継続して行っていた(原告BがE評価を受けていたことは当事者間に争いがない。)。
オ 以上のような事情と,被告が共産党員を嫌悪し,共産党員である従業員に対して脱退勧奨を行い,閑職に就かせるなど処遇上不利益を与える労務政策を有しており,原告Bも共産党員であるとの認識を有していることを併せ考慮すると,被告は,原告Bに対し,原告Bが共産党員であることを理由として,上記のような処遇を行ってきたものと推認せざるを得ない。
7 賃金格差について
 原告Aの賃金実績(争いがない。)
ア 原告Aの平成9年4月以降平成12年3月までの月額賃金(基本賃金)の実績は,以下のとおりである。
平成 9年度 36万1300円
平成10年度 36万4700円
平成11年度 36万7600円(ただし,同年4月から同年9月まで)
平成11年度 36万7800円(ただし,同年10月から平成12年3月まで)
イ 原告Aの平成9年4月以降平成11年12月までの一時金・賞与の実績は,以下のとおりである。
平成 9年 6月 88万9111円
平成 9年12月 89万8596円
平成10年 6月 88万3507円
平成10年12月 86万9681円
平成11年 6月 83万8300円
平成11年12月 87万7651円
 原告Bの賃金実績(争いがない。)
ア 原告Bの平成9年4月以降平成12年3月までの月額賃金(基本賃金)の実績は,以下のとおりである。
平成 9年度 33万0500円
平成10年度 33万5900円
平成11年度 34万0900円(ただし,同年4月から同年9月まで)
平成11年度 34万1300円(ただし,同年10月から平成12年3月まで)
イ 原告Bの平成9年4月以降平成11年12月までの一時金・賞与の実績は,以下のとおりである。
平成 9年 6月 78万1932円
平成 9年12月 78万4236円
平成10年 6月 75万3895円
平成10年12月 72万7143円
平成11年 6月 70万4441円
平成11年12月 76万6053円
 賃金格差の有無
ア 賃金格差の判断基準
 前記2で認定した事実によると,被告における人事制度は,実際には,ある程度経年により昇進するいわゆる年功序列的な運用がされてきたものの,基本的には職能制度を前提とするものである。したがって,被告は,各従業員の業務実績や業務遂行能力を評価し,これに基づく人事考課により従業員の処遇を決定するについて,裁量権を有するものといえる。しかし,上記裁量も全く被告の自由に委ねられるわけではなく,適正な人事考課を前提とするものである。そして,原告らはいずれも,上記人事制度の下,同期同学歴者と比較して,不当に不利益に扱われないとの利益を有しているところ,そのような利益を侵害されたといえるには,差別意思をもった人事考課が行われ,その結果,同期同学歴者の平均的な者との間に処遇及び賃金の格差が
生じたことを要する。ここでいう平均的な者(平均者)とはいかなる者を指すかであるが,各従業員が担当する職務内容等は千差万別であるから,特定の者に限ることはできないが,被告の人事制度及び経験則に照らし,中程度の業務遂行能力を有し,かつ,年功序列に沿った昇進を可能とする程度の勤務実績を有していた者と観念すべきであり,具体的には,本件においては,原告ら主張の,各原告の同期同学歴者の賃金の平均値をもって,平均的な従業員の賃金とみるのが相当である。なお,被告は,被告においては定年前退職率が優に4割を超えており,また,定年前退職者の相当数は能力的にみて将来にわたって専門職にとどまらざるを得ない者であって,あたかも原告らの現職の同期同学歴者が人事考課上所定の水準を上回っているかのように主張す
るが,原告らの現職の同期同学歴者が所定の水準以上の能力を有していると認めるに足りる証拠はない。
イ 平均者の賃金との差額(金額が下記のとおりになることは,争いがない。)
 原告Aについて
a 原告Aの同期同学歴者の平成9年4月から平成12年3月までの平均賃金(月額)は,以下のとおりである。
平成 9年度 59万3334円
平成10年度 59万9778円
平成11年度 59万5500円(ただし,同年4月から同年9月まで)
平成11年度 59万5500円(ただし,同年10月から平成12年3月まで)
b 原告Aの同期同学歴者の平成9年4月から平成11年12月までの一時金・賞与は,以下のとおりである。
平成 9年 6月 170万円
平成 9年12月 170万6667円
平成10年 6月 164万7778円
平成10年12月 152万5000円
平成11年 6月 144万8000円
平成11年12月 142万2000円
 原告Bについて
a 原告Bの同期同学歴者の平成9年4月から平成12年3月までの平均賃金(月額)は,以下のとおりである。
平成 9年度 51万0812円
平成10年度 51万4848円
平成11年度 52万1941円(ただし,同年4月から同年9月まで)
平成11年度 52万1941円(ただし,同年10月から平成12年3月まで)
b 原告Bの同期同学歴者の平成9年4月から平成11年12月までの一時金・賞与は,以下のとおりである。
平成 9年 6月 140万0074円
平成 9年12月 141万9888円
平成10年 6月 139万1691円
平成10年12月 134万2762円
平成11年 6月 128万4306円
平成11年12月 136万0388円
ウ したがって,平成9年4月以降平成12年6月までの各原告と平均者との賃金差額(月額)及び一時金・賞与差額は,以下のとおりとなる(なお,平成12年度以降については,少なくとも平成11年度と同程度の差額が生じていたものと推認される。)。
 原告Aについて 
a 賃金差額(月額)
平成 9年度 23万2034円
平成10年度 23万5078円
平成11年度 22万7900円(ただし,同年4月から同年9月まで)
平成11年度 22万7700円(ただし,同年10月から平成12年3月まで)
平成12年度以降 22万7700円
b 一時金・賞与差額
平成 9年 6月 81万0889円
平成 9年12月 80万8071円
平成10年 6月 76万4271円
平成10年12月 65万5319円
平成11年 6月 60万9700円
平成11年12月 54万4349円
平成12年度以降合計 291万7798円
 原告Bについて
a 賃金差額(月額)
平成 9年度 18万0312円
平成10年度 17万8948円
平成11年度 18万1041円(ただし,同年4月から同年9月まで)
平成11年度 18万0641円(ただし,同年10月から平成12年3月まで)
平成12年度以降 18万0641円
b 一時金・賞与差額
平成 9年 6月 61万8142円
平成 9年12月 63万5652円
平成10年 6月 63万7796円
平成10年12月 61万5619円
平成11年 6月 57万9865円
平成11年12月 59万4335円
平成12年度以降合計 292万8265円
 賃金格差の違法性について
 前記1ないし6で認定した事実によると,原告らについては,その職務遂行上,否定的な評価も認められるが,原告らがいずれも長期間にわたって他の従業員と比較して著しく低い能力・業績しかなく最低評価以外全く考えられないような業務遂行により上記のような格差が生じたということはできず,かえって,上記のような格差が生じたのは,被告が原告らを共産党員であることを理由として他の従業員よりも低い評価を行い,その結果,賃金面でも低い処遇を行ってきたことによるものである。
 企業は,経営及び人事管理において,裁量権を有するものであるが,裁量権も無制限に認められるわけではなく,当然,法令及び公序良俗の範囲内において認められるものであって,これを逸脱し,その結果として従業員の権利を侵害する場合は,裁量権の行使が不法行為となることもあり得る。そして,労働基準法3条は,使用者による労働者の信条等を理由とする賃金,労働時間,その他の労働条件について差別的な取扱いをすることを禁止しているが,ここにいう信条には,特定の政治的信念ないし政治的思想を含むものと解される。したがって,信条を理由として差別的な処遇を行うことは,人事に関する裁量権の逸脱であり,違法であるといわなければならない。
 そうすると,被告による原告らに対する前記処遇は違法であることに帰着するから,これにより,原告らに損害が生じた場合,被告は,不法行為責任に基づき,これを賠償する義務があるというべきである。 
8 原告らに生じた損害等について
 差額賃金相当損害金(差額一時金・賞与相当損害金を含む。以下同じ。)について
ア 原告らは,上記損害について,平成9年以降に原告らに実際に支給された賃金(賃金実績)と違法な差別的取扱いがなければ同月以降支給されたであろう平均者の賃金との差額を財産上の損害として主張している。
 そこで検討するに,先に説示したところによると,被告は,遅くとも昭和51年5月以降,原告らに対して不当に低い人事考課を行い,低位に処遇することにより違法な差別的な取扱いをしてきたものである。そして,このような取扱いにより,職位を反映する賃金において,原告らは,差別的処遇がなければ支給されたであろう賃金より低額の賃金を支給されてきたことになる。
 したがって,実際に支給されたであろう賃金と原告らが実際に被告から支給された賃金(賃金実績)との差額は,原告らに生じた財産上の損害ということができる。そして,先に説示したところによると,原告らは,いずれも業務遂行能力の点から見て,同期同学歴者と比較して卓越していたとはいえないが,少なくともそれと同等の業務遂行能力があったと認められる。
 そうすると,原告Aについては,前記7,,ウ,の限度で,原告Bについては前記7,,ウ,の限度で,それぞれ差額賃金相当額の損害を受けたものということができる。
 慰謝料について
 原告らは,それぞれ,被告の差別的処遇や嫌がらせ行為により,精神的損害を被ったとして,被告に対し,昭和55年4月以降平成9年3月までの差額賃金相当額及び差額一時金・賞与相当額と同額を慰謝料として請求している。
 このうち,原告らに対する被告の差別的処遇があったことについては,先に説示したとおりであり,証拠(原告A本人,原告B本人)によると,原告らは,被告の差別的処遇により精神的苦痛を被ったことが認められる。
 そして,この差別的処遇は,遅くとも昭和51年5月以降,本件口頭弁論終結時まで継続している(終期については弁論の全趣旨により認められる。)。
 しかし,個々の差別的行為や嫌がらせ行為については,個別に不法行為が成立し,その損害賠償請求権が時効により個別に消滅することを免れるものではなく,被告が,本件提訴前3年以前の事実関係に基づく慰謝料請求権について,消滅時効を援用したことは当裁判所に顕著であるから,被告による差別的行為や嫌がらせ行為のうち,本件提訴前3年以前の事実に基づく慰謝料請求権は時効により消滅したものというべきである。
 したがって,これを前提に原告らの慰謝料請求権について検討するに,証拠(原告A本人,原告B本人)によると,原告らの精神的損害は,職位等が同期同学歴の従業員だけでなく,後輩にあたる従業員よりも下位に置かれ,その結果,社会的評価や名誉感情も害されたと認められるから,財産的損害が回復されても当然に精神的損害が当然に回復されるとはいい難い。しかし,一方で,民法は,制裁的損害賠償を認めていないから,原告ら主張のように,損害の公平な分担の観点からみて,各原告に対する慰謝料の算定につき,各原告に対する精神的慰謝という意義にとどまらず,差別はペイしないという企業にとって制裁的な要素を考慮するということはできない。
 そこで,各原告に対する慰謝料については,被告の各原告に対する前記認定の差別的処遇等の内容や原告Aに対する嫌がらせ行為,慰謝料請求権の基礎となる期間その他本件に顕れた一切の事情を総合考慮し,原告Aに対しては150万円,原告Bに対しては80万円とするのが相当である。
 弁護士費用について
 原告らが本件訴訟の提起・追行を原告ら訴訟代理人に委任したことは本件記録上明らかであるところ,弁護士費用については,本件訴訟の難易度等を考慮し,各原告の差額賃金相当損害金及び慰謝料の合計認容額のほぼ1割に相当する金額,すなわち,原告Aについては,230万円,原告Bについては190万円をそれぞれ被告の不法行為と相当因果関係のある損害と認める。
9 結論
 以上によると,原告らの本件請求は,主文のとおり,いずれも差額賃金(一時金・賞与を含む。)相当損害金及び慰謝料の一部並びにこれらに対する不法行為後の日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金,弁護士費用の一部の支払を求める限度で理由があるが,その余は理由がない。
なお,本件請求は,不法行為に基づくものであるから,遅延損害金の利率は,上記のとおりとなる。また,慰謝料については,本件口頭弁論終結時までの消滅時効が成立しない期間における被告の差別的処遇行為等を総合考慮していることから,その遅延損害金の起算日を本件口頭弁論終結日である平成14年10月30日と認める。
大阪地方裁判所第5民事部

裁判長裁判官  小佐田 潔

   裁判官  大島 道代

   裁判官 朝倉 亮子

      原告A認容遅延損害金

1 内金150万円に対する平成14年10月30日から支払済みまで年5分の割合による金員
2 内金1253万1543円に対する平成12年4月22日から支払済みまで年5分の割合による金員
3 内金22万7700円に対する平成12年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
4 内金22万7700円に対する平成12年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
5 内金60万9700円に対する平成12年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
6 内金22万7700円に対する平成12年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
7 内金22万7700円に対する平成12年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
8 内金22万7700円に対する平成12年8月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
9 内金22万7700円に対する平成12年9月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成12年10月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成12年11月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金54万4349円に対する平成12年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成12年12月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年1月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年2月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年3月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金60万9700円に対する平成13年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年8月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年9月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年10月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年11月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金54万4349円に対する平成13年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成13年12月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成14年1月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成14年2月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成14年3月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成14年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成14年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金60万9700円に対する平成14年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金22万7700円に対する平成14年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員


      原告B認容遅延損害金

1 内金80万円に対する平成14年10月30日から支払済みまで年5分の割合による金員
2 内金1016万2621円に対する平成12年4月22日から支払済みまで年5分の割合による金員
3 内金18万0641円に対する平成12年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
4 内金18万0641円に対する平成12年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
5 内金57万9865円に対する平成12年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
6 内金18万0641円に対する平成12年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
7 内金18万0641円に対する平成12年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
8 内金18万0641円に対する平成12年8月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
9 内金18万0641円に対する平成12年9月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成12年10月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成12年11月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金59万4335円に対する平成12年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成12年12月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年1月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年2月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年3月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金57万9865円に対する平成13年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年8月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年9月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年10月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年11月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金59万4335円に対する平成13年12月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成13年12月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成14年1月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成14年2月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成14年3月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成14年4月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成14年5月26日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金57万9865円に対する平成14年6月16日から支払済みまで年5分の割合による金員
 内金18万0641円に対する平成14年6月26日から支払済みまで年5分の割合による金員


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