H 2. 2.20 長崎地裁 昭和57(行ウ)4 忠魂碑等維持管理補助金返還請求事件
H 2. 2.20 長崎地裁 昭和57(行ウ)4 忠魂碑等維持管理補助金返還請求事件
主文
一 被告は、長崎市に対し、金四万円及びこれに対する昭和五七年八月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は参加費用を除きこれを一四分し、その一三を原告の負担、その一を被告の負担とする。
四 参加費用は、補助参加人らの負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告
1 被告は、長崎市に対し、金五六万円及びこれに対する昭和五七年八月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 被告
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 原告及び原告補助参加人らは、長崎市の住民である。
被告は、昭和五四年五月二日から、長崎市の市長である。
2 被告は、長崎市長として、昭和五六年四月一日から同五七年三月三一日までの間に、別紙一忠魂碑等一覧表記載の一四群の碑(以下、「本件一四碑」という。同表番号12、14は、以下特に断らない限り各一群を各一基として表記する。)の維持管理者に対し、戦没者慰霊碑等維持管理費補助金(以下「本件補助金」という。)として、一基につき金四万円の割当で合計金五六万円を支出した。
3 (一)本件一四碑の維持管理者なる遺族会等は憲法八九条の「宗教上の組織若しくは団体」同法二〇条一項の「宗教団体」にあたるから、同遺族会等に対し本件補助金を支出することは同法八九条、二〇条一項に違反し違法である。
(二) また、本件一四碑は宗教施設で、この碑前での慰霊祭は特定の宗教による宗教儀式であるから、慰霊祭執行を条件として前記遺族会等に本件補助金を支出することは、市自身が英霊信仰の宗教教育ないし宗教的活動を実施していることになり憲法二〇条三項に違反する。
(三) また、地方自治法二三二条の二は、公益上の必要があるときでなければ普通地方公共団体が補助金を支出することを禁止しているところ、本件一四碑に対する本件補助金の支出については何等の公益上の必要性は認められないから同法条に違反し違法である。
なお、違憲、違法理由の詳細は別紙〔原告ら主張の違憲、違法理由〕のとおりである。
4 本件補助金は右のとおり違法な公金の支出であるから、長崎市は、本件一四碑に対する被告の本件補助金の支出によって、本件一四碑分の支出合計金五六万円と同額の損害を被った。
5 被告は、本件一四碑の宗教施設性を基礎づける事実や本件一四碑の管理の実態等を知っていたか、或いは容易にこれらを知りうべき立場にありながら、故意または過失により、本件一四碑に対して本件補助金の支出をし、長崎市に前記の損害を与えた。
6 原告は、昭和五七年五月六日、長崎市の監査委員に対し、本件補助金五六万円について、市が被った損害を填補する措置を講ずるよう請求したところ、同監査委員は、同年七月五日、長崎市が本件一四碑に対して支出した本件補助金は、憲法の定めに違反する行為に該当せず、公益上必要な交付であり、適正な支出であると認定し、その旨原告に通知した。
また、原告補助参加人らは、同年九月一日、同監査委員に対し右同様の監査請求を行ったところ、同監査委員は、同年一〇月二〇日、「本件補助金の支出は違法、不当とは認められない。」と監査請求を却下する旨の決定をなし、同日、その旨原告補助参加人らに通知した。
7 よって、原告は、地方自治法二四二条の二に基づき、長崎市に代位して、被告に対し、金五六万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和五七年八月一七日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を長崎市に支払うことを求める。
二 被告の本案前の主張
住民訴訟による代位請求は、地方公共団体が実体法上の請求権を有することを前提とするところ、地方自治法二四三条の二第一項は、私法とは別の公法上の特殊責任としての特例(故意又は重過失に限ること、除斥期間、賠償責任の免除、監査委員制度の適用)を定めたものであると解されるから、代位される請求権の根拠はもつぱら同項であると解すべきであり、市長も同項にいう職員に該当するから、同条三項以下の賠償命令なしに住民訴訟でその責任を追及することはできないと解すべきである。原告らは、右賠償命令がなされていないのに直接住民訴訟を提起したものであるから、本件請求は不適法であり却下されるべきである。
三 請求原因に対する認否及び被告の主張
1 請求原因1項は認める。
2 同2項のうち、別紙一忠魂碑等一覧表番号14の碑の名称については否認する。本件補助金の交付対象は別紙三忠魂碑等一覧表番号14に記載のとおり、「軍人軍属合葬之碑」及び「振遠隊戦士遺髪碑」である。その余は認める。
3 同3項は争う。
本件補助金の支出は適法なものである。その詳細は別紙〔被告の主張〕のとおりであるが、要するに、今日においては、本件一四碑は、専ら戦没者を追悼顕彰するための記念碑であり、その碑前で行なわれる慰霊祭も宗教儀礼ではなく地域住民の戦没者に対する素朴な人間感情の発露にすぎないものというべきである。
そして本件補助金の交付を受ける本件一四碑の維持管理主体たる遺族会等も宗教上の組織ないし団体ではないのであって、被告が長崎市長として本件補助金を支出するに至った目的も世俗的団体たる遺族会等その他の団体に対し戦没者遺族の慰藉という福祉目的に出たものにすぎないものであり、仮にこのような団体が碑前において慰霊祭を執り行ったことで宗教にかかわる行為に本件補助金支出の効果が及ぶとしても、その効果は特定の宗教を援助、助長、促進し、また他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められず、我が国の社会的文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障という制度目的上未だ相当とされる限度を越えていない。
むしろ、長崎市が本件一四碑の維持管理団体たる民間有志団体に対し、その維持管理費用に充てるため本件補助金を支出することは、国際文化都市、国際平和都市を目指す同市にとって、公益上の必要性があるというべきである。
4 同4項は否認する。
前記のとおり、本件補助金の支出は適法なものであるから、長崎市に損害は生じていない。また仮に違法な支出であったとしても、本件補助金の半額は長崎県からの補助金であり、この部分については長崎市の財政的負担はなく市の損害は生じていない。
5 同5項は否認する。
本件補助金の支出については、手続的には長崎県等関係先とも協議のうえ予算として長崎市議会の議決を得て行ったものであり、内容的にも従来の判例の趣旨等に鑑みても一見明白に違憲違法と判断することはできないのであって、被告に帰責事由ありとはいえない。
なお、本件補助金が違法であるとしても、被告に賠償責任ありとするためには、被告に故意または重大な過失が存することを要すると解すべきである。住民訴訟による代位請求は、地方公共団体が実体法上の請求権を有することを前提とするが、前記被告の本案前の主張のとおり、この請求権の根拠はもつぱら地方自治法二四三条の二第一項であると解されるからである。
6 同6項は認める。
第三 証拠(省略)
理由
第一 被告の本案前の主張に対する判断
被告は、普通地方公共団体の長も地方自治法二四三条の二第一項所定の賠償責任の対象職員に含まれるから本件補助金支出については同項の規定が適用されるべき場合にあたり、同条三項の賠償命令なしに被告に対して同法二四二条の二第一項四号の規定による損害補てんの代位請求訴訟を提起することはできない旨主張するが、同法二四三条の二第一項所定の職員には当該地方公共団体の長は含まれず、従って普通地方公共団体に対するその長の賠償責任については同法二四三条の二の適用はない(最高裁昭和五八年(行ツ)第一三二号同六一年二月二七日第一小法廷判決・民集四〇巻一号八八頁参照。)ので被告の右主張は理由がない。
第二 本案について
一 当事者
原告及び同補助参加人らが長崎市の住民であり、被告が、本件補助金の支出された昭和五六年度当時、長崎市長であったことは当事者間に争いがない。
二 本件補助金支出に関する事実関係
1 当事者間に争いのない事実
被告が長崎市長として、昭和五六年四月一日から同五七年三月三一日までの間に、本件一四碑(なお、別紙一と同三の各忠魂碑等一覧表上番号14の碑の名称の表記が異なるが、補助金の交付対象碑が「軍人軍属合葬之碑」及び「振遠隊戦士遺髪碑」であることについては、原被告双方の主張からみて、当事者間に争いがないものと認められる。)の維持管理者に対して、昭和五六年度補助金として、碑一基につき金四万円の割合で合計金五六万円を本件補助金として支出したことは当事者間に争いがない。
2 長崎市が本件補助金を支出するに至った経緯
右争いのない事実、成立に争いのない甲第三四号証、第五五号証の一、第五六号証の一ないし三、第六六号証の一、乙第三号証の一ないし四、第四号証の一ないし四、第五ないし第七号証、第二一号証、証人A、同B、同Cの各証言、原告本人尋問の結果によれば、長崎市が本件補助金を支出するようになった経緯等について、以下の事実が認められる。
(一) 長崎県下の戦没者慰霊碑等の維持管理者に対する補助金の交付は、長崎県が、昭和四七年九月一六日、「戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付要綱」(以下「県補助金交付要綱」という。)を制定し、
同年度から県下の戦没者慰霊碑等二六六基を対象として県連合遺族会に維持管理費補助金を支出したことに始まる。
県補助金交付要綱は、補助金支出の趣旨を「県は、県内に所在する戦没者の慰霊碑等の維持管理の充実を図るため、予算の定めるところにより、財団法人長崎県連合遺族会に対し、戦没者慰霊碑等維持管理費補助金(以下「補助金」という。)を交付するものとし、その交付については、長崎県補助金等交付規則(昭和四〇年長崎県規則一六号。)及びこの要綱に定めるところによる。」(一条)と定め、補助の対象及び補助額を「補助金の交付の対象となる経費は、知事が別に指定する戦没者の慰霊碑等及びその周辺の清掃等に要する費用並びに供花、供物等に要する経費とし、その補助額は一件当たり五〇〇〇円をこえない範囲とする。」(二条)とした。右要綱の制定により、長崎市内に存する戦没者慰霊碑等については、県補助金交付要綱に基づき、市内の一三碑について一基あたり五〇〇〇円の範囲内で、県から県連合遺族会に補助金が交付された。
(二) 県では、昭和四七年度から昭和五二年度まで、県補助金交付要綱に基づき、長崎県連合遺族会に対して、補助金を支出してきたが、昭和五三年六月、県下各市町村に戦没者慰霊碑等の実態調査を依頼し、その回答を踏まえて、同年度からは市町村にも県と同額の補助金額の支出負担を求めたうえ、市町村を通じて各戦没者慰霊碑等の管理団体に補助金を交付するようにすることとし、昭和五三年一二月八日、長崎県告示第九六八号をもって県補助金交付要綱を次のように改めた。
「趣旨 一条
県は、県下各市町村に建立されている戦没者慰霊碑等の維持管理の徹底を図るため、予算の定めるところにより、市町村に対し、戦没者慰霊碑等維持管理費補助金(以下「補助金」という。)を交付するものとし、その交付については、長崎県補助金等交付規則(昭和四〇年長崎県規則第一六号。)及びこの要綱の定めるところによる。
補助の対象及び補助額 二条
補助金の交付の対象となる経費は、知事が別に指定する戦没者慰霊碑等の維持管理及びその周辺の清掃等に要する経費並びに供花・供物等に要する経費とし、その補助額は、別に定める。
補助金交付の条件 五条
市町村は、この補助金に係る戦没者慰霊碑等の維持管理を関係団体等に行わせることができるものとする。」
(三) 県は、右のように県下各市町村を通じて補助金を支出することとして、県の補助金支出の対象を各市町村としたが、長崎市に対しては、昭和五三年一二月五日付で、県生活福祉部長から長崎市長宛の「昭和五三年度戦没者慰霊碑等維持管理費補助金について(内示)」という文書をもって、県としても今後一層維持管理の徹底を図ることとして慰霊碑等の実態調査を行った結果、今回県補助金交付要綱を改正し、従来長崎県連合遺族会に交付していた補助金を市町村に交付することにしたとして、県から市に対し、戦没者慰霊碑等維持管理費補助金を交付することの内示が行なわれた。
右内示において「補助の対象となる戦没者慰霊碑等は、昭和五三年六月六日付五三援第一二九号の調査に対し回答のあった慰霊碑等のうち、当該市町村の維持管理が必要と、当該市町村が認めるものとします。(要綱第二条の知事が別に指定する戦没者慰霊碑等)」また「交付された補助金は当該市町村においてそれぞれの慰霊碑等に必要に応じて配分して差仕え」なく、慰霊碑等の基準及び補助金の配分基準は
(1) 戦没者慰霊碑等の基準
A=慰霊碑等の建立されている市町村に各一基(市町村単位)
B=旧町村内に建立され管理されている慰霊碑等のうち各一基(旧町村単位)
C=市町村から報告があった慰霊碑等のうち、A及びBを除いた慰霊碑等(その他の慰霊碑等)
(2) 補助金の配分基準
A=四〇〇〇〇円 B=二〇〇〇〇円 C=八〇〇〇円
であるとされた。
そして、県は、昭和五四年一月三一日に開催された援護業務担当者会議の席上、前記のとおり改定した県補助金交付要綱の説明を行い、その際、戦没者慰霊碑等のある市町村に対して、補助金の不足分について義務負担ではないがそれぞれ応分の負担をしてもらいたい旨口頭での依頼をして、市町村に対して、半額負担を強制したものではなく、市町村の補助金半額負担について各市町村の自主性に任せるかたちで、県と同額の補助金負担の支出要請をした。
(四) 県が市町村に補助金の一部を負担させるようにした理由についての県の説明は以下のとおりである。
「(1)戦後、慰霊碑等の取扱は、昭和二一年連合国総司令部のいわゆる神道指令によって、解体、廃棄を余儀無くされたが、昭和二七年四月、講和条約締結後、各地において修復復元がなされてきた。しかし、その管理までには手がまわらず、草の生い茂るままに放置される碑もあった。また、これらの碑は、公衆の憩いの場である公園等に多く建立されており、環境美化の見地からも善良な管理が必要であった。
(2) 昭和四七年度この補助制度が制定される以前の慰霊碑等の維持管理は、草むしり、清掃等を地区遺族会、戦友会、自治会等によるボランティアで、供花、供物等は寄付に頼っていたものである。このような事情で、どこの団体の管理にも属していなかった前述の荒れ放題の碑の管理を適当な団体に要請するためにも、呼び水的な補助金が必要であった。
(3) 昭和四七年から昭和五二年度までは、補助金を県連合遺族会を通じて交付していた。当時、交付の対象となっていた碑は、主に県下の遺族会支部が管理していたものが中心となっていたが、自治会や戦友会、婦人会等が管理している碑も多くあることが判明したため、昭和五三年六月、県下市町村へ碑の実態調査を依頼し、その結果、遺族会関係団体以外の管理団体にも補助すべく五三年度から市町村を通じて補助金を交付することに改めた。
(4) 管理団体による碑の維持管理のための清掃、供花、供物等の年間回数は、多いところで清掃一二〇回、供花等三〇回という団体もあり、これに要する費用は、清掃人夫賃を除いて補助金の一〇数倍を要している。県では、少しでもこのような管理団体の負担を軽減するため、補助制度を設け、市町村による善良な管理指導と、義務負担ではないが、応分の負担ができないかと、お願いした。」
(五) 長崎市は、前記のとおり、昭和五三年六月ころ、県から市内に存する戦没者慰霊碑等の調査依頼を受け、その調査を実施して調査結果を県に回答していたところ、昭和五三年一二月、前記のような戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付の内示(補助金交付予定額五六万八〇〇〇円。内訳、Aランク一基、Bランク一〇基、Cランク四一基)があった。
補助金支出に関する市の担当部署は社会課であったが、同課では、県から前記補助金支出要請のあった昭和五四年一月時点で、すでに補正予算を組んで補正予算議案に提出する期限を過ぎていたので、財政課と相談のうえ、年度際であるし、また補助金の市負担分支出は新たな支出項目の設置であって補正に馴染む問題でもないということで、県に年度内支出について再検討をしてもらったところ、県は、昭和五三年度は県費の分だけでも支出してほしい、市の上乗せ支出分については、翌年から支出してもらえば結構であるということであった。そこで、県から市に対して支出された額をそのまま市が支出するいわゆるトンネル支出での補正予算計上であれば、議会で議決してもらうのも困難ではないだろうとの判断で、県からの補助金額をそのまま補助金として市が支出するかたちで補助金支出を補正予算に組んだ。
(六) 右予算計上に当たっては、長崎市議会ではかねて諏訪神社の祭礼である「長崎くんち」への予算支出、殉国慰霊奉賛会補助金について憲法とのかかわりがあるとの指摘がなされており、財政課と社会課が協議して、社会課において支出の適法性について検討を行った。県からの説明では、慰霊碑については、公共のために殉死した人を県民の総意で祭っており、平和を希求する祈念碑であると考えており、国が戦没者遺族に対して遺族年金等の財政援助を行っており、地方公共団体としても何らかの援助を行うことが必要と考え、自治会、遺族会などの任意団体に対して、戦没者慰霊碑などの周辺の清掃とか或いは環境整備とか、供花供物というものの実費の一部に補助金を支出してほしいということであったので、そういう支出についての憲法上の問題も検討し、碑の周辺をきれいにするといった意味では公益上も好ましいのではないかとの判断で支出することとなった。なお右検討の際及びそれ以後においても、忠魂碑の宗教施設性についての論議はなされず、宗教には関係ないと解釈していた。そして、前記のとおり、県から市に対しては、昭和五三年度、戦没者慰霊碑等を三段階に区分し、計五二基分として合計五六万八〇〇〇円の金額の補助があったものの、市は戦没者慰霊碑等の調査結果から、市内にある碑のすべてを承知していたので、検討の結果、憲法上支出に疑義のある具体的な碑を除外するための交付基準として後述のような市独自の交付基準を社会課で作成し、県が補助対象としていた前記五二基のうち企業や神社、仏閣などが建立した慰霊碑等一六基については助成対象から除外し、補助額については県から交付される補助金額を残った碑の数、規模を基準に分配して市の負担となる分を上乗せしないまま、合計三六基(右には、本件一四碑のうち、番号13、14を除く一二基が含まれていた。)に、一基当たり二万五〇〇〇円、一万二〇〇〇円、七〇〇〇円の補助額を補助金として支出することとして、「長崎市戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付要綱」(以下「市補助金交付要綱」という。)及び補助の具体的基準である「戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付基準」(以下「市補助金交付基準」という。)を定めた。
(七) 昭和五三年度補正予算は、昭和五四年三月一五日の市議会昭和五四年第一回定例会で議決された。右市議会の委員会審議においては、一部委員から、戦没者慰霊碑等の維持管理費に対する補助金について、市民が何ら報酬を期待せず、ささやかな善意に基づいて行った行為に対して県、市が介入することは好ましくないとの反対意見が出されたが、採決の結果、賛成多数で原案が可決され、本会議でも、同様に反対があったものの原案どおり可決され、合計三六基(前記のとおり、本件一四碑のうち、番号13、14を除く一二基を含む。)に補助金が交付された。
(八) 昭和五三年度は、被告の前任市長が補助金を支出したものであったが、被告は、昭和五四年五月二日に市長に就任し、昭和五四年度には、県補助金額に市が同額を上乗せ負担して倍額の補助金額として補助金を支出し、以後、補助金額の増減や補助金交付を行った対象碑の数に増減はあるものの(番号13、14の碑に対する補助金支出は、昭和五五年度から始まった。)、被告は、前任市長の施策をそのまま引き継ぎ現在まで補助金が交付されている。
3 本件補助金の交付基準
成立に争いのない乙第三号証の一ないし四、第四号証の一ないし四、第五号証によれば、以下の事実が認められる。
(一) 前記のとおり、長崎市は、本件補助金支出にあたり市補助金交付要綱及び市補助金交付基準を作成したが、昭和五三年度の市補助金交付要綱は以下のようなものであった。
「(趣旨)第一条
この要綱は、本市に建立されている戦没者慰霊碑等の維持管理の徹底を図るため、予算の定めるところにより、当該慰霊碑等の維持管理を行う者に対し、戦没者慰霊碑等維持管理費補助金(以下「補助金」という。)を交付することについて必要な事項を定めるものとする。
(補助の対象経費及び補助額)第二条
補助金の交付の対象となる経費は、市長が別に定める戦没者慰霊碑等の維持管理及びその周辺の清掃等に要する経費並びに供花・供物等に要する経費とし、その補助額は、別に定めるものとする。
(補助金の交付決定)第四条
市長は、前条の申請書を受理したときは、その内容を審査し補助の適否及び補助額を決定し、その旨を補助金交付決定通知書により申請者に通知するものとする。」
右交付要綱に基づき定められた市補助金交付基準による補助対象碑、補助額は以下のとおりであった。
「(補助対象碑) 要綱第二条の市長が定める戦没者慰霊碑等は、市内に所在する慰霊碑等(戦争及び原子爆弾による犠牲者の慰霊碑等に限る)のうち、次に掲げるもの以外のものとする。
(1) 篤志者により建立されているもの(建立後、公的団体等へ寄贈されたものを除く)
(2) 神社、仏閣の境内に建立されているもので、慰霊祭及び清掃等維持管理がこれらにより施行されているもの
(3) 清掃等維持管理が常態(年一回以上清掃等が実施されている場合をいう)としてなされず、かつ、慰霊祭が執行されていないもの
(4) 民間会社等が自己の従業員であったもののために建立し、慰霊祭も社内行事として執行されているもの
(5) 公費より現に補助を受けているもの
(6) 市が別途委託契約により管理運営を委託しているもの
(補助額) 要綱第二条に定める補助額は、次のとおりとする。
(1) 編入前の旧町村内に建立され管理されている碑で、かつ、その地域を代表する慰霊碑 一基につき二五〇〇〇円
(2) 自治会等により建立されている慰霊碑 一基につき 一二〇〇〇円
(3) 学校法人等により建立されている慰霊碑 一基につき 七〇〇〇円
(4) 建立委員会等の団体により建立されている慰霊碑 一基につき 七〇〇〇円」
(二) 昭和五六年度の交付要綱の前記各条項、市補助金交付基準の補助対象碑の基準は昭和五三年度のものと同様であったが、市補助金交付基準の補助額は昭和五四年度に県からの補助額に同額の市負担分を上乗せして、県補助額の倍額を補助額とする改定が行われ、更に、昭和五六年度にも補助額が改定された結果、昭和五六年度の市補助金交付基準は、
「(1)編入前の旧町村内に建立され管理されている碑で、かつ、その地域を代表する慰霊碑 一基につき四〇〇〇〇円
(2) 自治会等により建立されている慰霊碑 一基につき 二〇〇〇〇円
(3) 学校法人等により建立されている慰霊碑 一基につき 一一七五〇円
(4) 建立委員会等の団体により建立されている慰霊碑 一基につき 一一七五〇円」となった。
そして、本件一四碑は、いずれも右交付基準の「(1)編入前の旧町村内に建立され管理されている碑で、かつ、その地域を代表する慰霊碑」として、一基四万円の補助金が交付された。
(三) 本件訴訟前における監査請求において、長崎市の関係者が市補助金交付基準について説明したところによれば、右交付基準作成にあたっての市の見解、解釈は以下のようなものであった。
(1) 忠魂碑或いは慰霊碑の性格については、戦没者を祭った碑と原爆による死者を祭った碑とがあるが、いずれも宗教上の関係はないと解釈しており、軍人、軍属はもとより一般民間人を含め、国家、社会のために生命をささげた人々を慰霊することは宗教、宗派、民俗、国家の別を越えた人間の自然の普遍的な感情であり、碑は、その発露としての市民の総意であり、死没者の慰霊と将来に向かって平和を祈念する一つの象徴であると判断した。
(2) 政教分離とのかかわりでは、建立場所が神社、仏閣の境内にある碑もあるが、市としては、建立場所よりも建立者或いは実際に維持管理しているのが誰かということを基準として補助金支出の対象にするか否かを区別するようにし、従って自治会等により建立されたものであってもその維持管理を神社、仏閣が行っているものについては補助の対象から除外した。また、建立場所が神社、仏閣の境内であっても、それが自治会、遺族会、戦友会等によって建てられ同会等により維持管理がなされていれば補助対象とした。
(3) 慰霊祭については、戦没者の霊を慰め追悼をするという意味であり、ある特定の宗教を通じて霊を慰めるという社会の一般的慣習に従ったもので、世俗的、儀礼的に行われていると考えた。
(4) 補助金の交付目的は、慰霊碑等の維持管理を目的とし、具体的には清掃に使う費用等に充てるものとして交付した。補助金の交付対象となる経費、補助金の使途は、碑の補修やその周辺の清掃等に関する経費または供花、供物に要する経費であり、具体的には、碑自体やこれに属する柵、植木等の整備に要する経費、清掃に伴う道具類の購入、清掃に対する謝礼的性格を有する飲物、弁当の購入代、供花、供物代、交通費である。
(5) 補助金額の算出根拠は、県の基準にある碑のランク別に、それぞれ清掃代、供花代及び供物代の三項目に分けて考え、まず清掃代については掃除に従事する人員を推定して所要経費をランク毎に算出し、また供花、供物についても必要と思われる額をランク毎に算出した。
4 補助金交付実績
前記1の争いのない事実、前掲甲第五六号証の一、乙第七号証、証人Aの証言及び弁論の全趣旨によれば、以下のとおり認められ、右認定に反する証拠はない。
長崎市における本件補助金の支出状況は、昭和五三年度から昭和五五年度までは別紙二補助金交付実績一覧表の補助額欄記載のとおりである。
本件補助金の支出年度である昭和五六年度は、本件補助金などをその項目内に含も社会福祉総務費の予算額が一億一二五六万六三九九円であったが、決算額は一億〇七四九万二八二二円であり、その内、各種の補助金等に合計六七九二万七六二二円を支出し、本件の戦没者慰霊碑等維持管理費補助は右のうち、合計九二万八〇〇〇円であった。本件補助金支出の内訳は、補助金交付対象が合計三九基で、右三九基には、本件一四碑すべてが含まれている。補助金額は、本件一四碑についてはいずれも一基四万円、本件一四碑を除くその他の碑はいずれも一基二万円または一万一七五〇円である。
なお、戦没者の遺家族等に対しては、「遺家族等援護費」として二二六万四〇〇〇円(予算額二七五万円)が支出されているが、その内訳は以下のとおりである。
(1) 補助金 合計一三六万円
ア 長崎市連合遺族会補助 二五万円
イ 長崎県殉国慰霊奉賛会長崎市支部補助 三九万円
ウ 沖縄研修視察遺族参加補助 四〇万円
エ 長崎県動員学徒犠牲の会補助 五万円
オ 日本傷い軍人会全国合同大会開催費補助 二七万円
(2) 中国帰国者見舞金 合計 六万円
一 時帰国者見舞金(二世帯) 六万円
(3) 戦没者遺家族等援護費 合計 八四万四〇〇〇円
ア 戦没者遺家族敬供品(八三〇〇世帯) 八三万円
イ 未帰還者留守家族見舞(七世帯) 一万〇五〇〇円
ウ 戦没者勲章伝達式敬供品 三五〇〇円
三 本件一四碑に関する事実
1 番号1天主公園 「忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第一号証の一ないし三、成立に争いのない甲第一九号証の一ないし五、乙第一〇号証、証人A、同Dの各証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現状
所在 市内<地名略>所在の天主公園内の一角
敷地 市所有地(公園)で、碑の敷地面積は一三・一二平方メートル
碑文 「忠魂碑」
形状 約二メートルの高さの台座の上に、約二メートルの石碑が乗せられている。石柱に鉄製鎖を周囲に張って垣根とし、台座には再建の趣旨が刻まれている。
(二) 碑の建立経緯
大正六年(一九一七年)ころ、在郷軍人会が浦上天主堂内入口付近に忠魂碑を建立したが、原爆で倒壊し、戦後野ざらしにされていた。昭和四三年に諏訪公園内の忠魂碑(番号13の忠魂碑)が復元されたことが契機となり、同年一一月に有志と地元自治会とで浦上地区忠魂碑復元委員会が結成され、復元の運びとなったが、以前に忠魂碑が建てられていた場所には戦後マリア像が建てられていて場所がなく、昭和四四年、浦上天主堂と道路を隔てた場所にある天主公園(市有地)の一角約六坪を無償で借受けて前記野ざらしになっていた忠魂碑の石碑を用いて復元再建した。
(三) 碑の慰霊対象
当初は、浦上地区出身の日清、日露戦争戦没者を慰霊する碑として建立されたが、再建後は、同地区出身者の第二次世界大戦戦死者、原爆による死亡者(学徒動員、挺身隊の死者を含め)も合わせて慰霊する碑とした。
(四) 碑の管理団体
浦上地区忠魂碑保存会が忠魂碑を管理しているが、同保存会は、戦没者遺家族、原爆殉難者遺家族、旧山本校区各自治会、旧在郷軍人会、銃剣道連盟で構成されている。
碑の所有者は浦上地区忠魂碑保存会である。
(五) 碑の維持管理の状況
公園の樹木の状況を見て、市公園課の許可をとり枝の伐採を行う。また、碑前の植木は状況により植替をし、毎年八月の九日と一五日に花を供える。
(六) 碑に関する祭礼の状況
浦上地区忠魂碑保存会が、碑前において、昭和五二年ころから隔年毎(二年に一回)の一〇月中旬から一一月中旬ころに、神式、カトリック式交互の方式で、慰霊祭をとり行っている。
昭和五六年は八月九日と一〇月ころの二回慰霊祭が実施され、うち一〇月ころに実施された慰霊祭は護国神社から神官二名を招いて神式で行われ、その式次第は以下のとおりであった。
(1) 参列者着席 (2)祭員着席 (3)開会の辞 (4)君が代斉唱 一同起立 (5)仕叔 (6)降神の儀 (7)一拝(一同起立 斉主に合わせて拝礼) (8)献撰 (9)祝詞奏上 (10)祭主慰霊の詞 (11)来賓慰霊の詞 (12)祭電文奉丈 (13)玉串奉奨 (14)撤撰 (15)昇神の儀 (16)一拝(一同起立 斉主に合わせて拝礼) (17)主催者挨拶 (18)遺族代表謝辞 (19)閉会の辞
昭和五八年一〇月に実施された慰霊祭は浦上天主堂から神父を招いてキリスト教カトリック式で行われ、その式次第は以下のとおりであった。
(1) 開会の辞(2)追悼式((1) 聖歌 (2) 祈願 (3) 第一朗読 (4) 聖歌 (5) 第二朗読 (6) 主の祈り (7) 撒水、焼香 (8) 祈願) (3)慰霊文奉呈(長崎市長) (4)慰霊電文披露(地元選出国会議員、市議会議長) (5)献花 (6)主催者代表挨拶 (7)遺族代表謝辞(戦没者遺族代表及び原爆殉難者遺族代表) (8)閉会の辞
祭礼参加者は、浦上地区在住の戦没者及び原爆殉難者の遺家族の他、市遺族会、友好諸団体、来賓として知事、市長(代理)などである。
なお、神式、キリスト教カトリック式にかかわりなくキリスト教信徒、非信徒が出席している。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
浦上地区忠魂碑保存会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度は碑の維持管理費として碑の周囲の植木の植えかえ代二万円、毎年八月九日の原爆記念日と年二回供える花代一万二〇〇〇円、供物代二万五〇〇〇円の合計五万七〇〇〇円を支出し、本件補助金四万円は、右費用の一部に充当された。残額一万七〇〇〇円は寄付金で賄われた。
2 番号2式見小学校 「忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第二号証の一ないし三、成立に争いのない甲第一八号証の一ないし五、第三二号証の二、乙第九号証、証人A、同Eの各証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現状
所在 市内式見小学校の旧校舎と新校舎の間にある小高い丘の上
敷地 同所は現在式見小学校の敷地内で長崎市所有。碑の敷地面積は約四〇・九六平方メートルである。建立当時の敷地は、式見小学校の隣接地にあり、昭和三三年に旧式見村が同校増設のための用地を買収した際に、学校の構内に位置するようになったものである。
碑文 「忠魂碑」
形状 一一・三五平方メートルの台座、高さ五・三二メートル(碑二・五二メートル、台座二・八〇メートル)のコンクリート製の碑である。
碑の前面台座中央部分に両開きの鉄製扉があり、その中は木張りの部屋となっているが、霊璽などは納められていない。以前に霊璽が納められていたのか否かは証拠上明らかでない。
碑の周囲には桧の植木が数本植えられ、碑の横に国旗掲揚ポールが立てられている。
(二) 碑の建立経緯等
昭和一二年(一九三七年)六月、日清戦争以後の式見地区戦没者を顕彰するために現在の場所に建立された。建立者は明確ではないが、在郷軍人会式見分会が主体となって資金を集め建立したものと想定されている。
第二次世界大戦後、撤去命令が出され、撤去を免れるため「忠魂碑」という銘板の代わりに「憲法発布記念塔」という銘板をはめたことがあるが、昭和三三年以前に「忠魂碑」に戻された。式見小学校用地が拡張されたことにより、小学校の敷地内に位置することとなった。
(三) 碑の慰霊対象
日清戦争以後の旧式見村出身の戦没者。
(四) 碑の管理団体
昭和三〇年半ばころから、式見遺族会が管理している。式見遺族会は、従前は式見村遺族会であったのが、昭和三七年に式見村が長崎市に合併したのに伴い、式見遺族会となった。
碑の所有者は式見遺族会である。
(五) 碑の維持管理の状況
毎年四月、八月一五日の二回清掃を行い、その際に供花する。供花は、その後、自宅、寺へ持って行き供える。
(六) 碑に関する祭礼の状況
例年一〇月に式見遺族会、軍恩連式見支部、傷洟軍人式見支部及び式見連合自治会の合同主催で、碑の清掃をし、碑に供花、供物をして礼拝した後、これらの供花、供物を持参して、式見浄満寺において仏式で慰霊祭を実施する。碑前での慰霊祭は実施されていない。寺での慰霊祭は、正面仏間に位牌型の白木に「戦没者の霊」と書かれた紙を貼ったものを置き、主催者代表として式見連合自治会長の挨拶の後、同寺僧侶が読経する中、主催者、来賓、遺族が順次焼香し、最後に遺族会長が謝辞を述べて終了する。
八 月一五日にも碑前で供花、供物を供え礼拝する。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
式見遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、年二回の清掃時の清掃参加者弁当代、飲物代、車借り上げ料小計三万二〇〇〇円、扉の錆止めと把手の溶接に要した修理費八九〇〇円、供花、供物(お神酒、野菜他)代九七七〇円、その他ナイロン袋や線香代一二〇〇円、以上合計五万一八七〇円の一部に充当された。
3 番号3深堀神社境内 「招魂廟」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第三号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二六号証の一ないし七、乙第一一号証、証人Fの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現状
所在 市内<地名略>所在の深堀神社境内。「戦役記念碑」と並んで建っている。
敷地 深堀神社所有地。碑の敷地面積約六・六平方メートル
碑文 「招魂廟」
形状 一メートル四方くらいの石の台座の上に石造りのほこらがのっており、ほこらの正面には石製扉が設けてある。右扉の上に招魂廟と刻まれている。ほこらの中に何か納められているのか否かは証拠上明らかでない。台座を含めた高さは約二メートルである。碑の周囲は石柱による垣根がめぐらせてあり、つつじの木が正面に一対植えられている。
右招魂廟に並んで「戦役記念碑」があるが、右碑はコンクリート製の台座に「戦役記念碑」と刻まれた石碑がのせてあり、招魂廟を上回る高さの碑である。
(二) 碑の建立経緯
戊辰戦争で戦死した者のため明治二年(一八六九年)に招魂社(靖国神社の前身)が設立されたのに呼応して、明治三年(一八七〇年)七月、戊辰戦争で戦死した深堀藩士六名を祭るため現在の場所に建立された。建立者、現所有者は不詳である。
(三) 碑の慰霊対象
当初は、明治維新時代の戊辰戦争で戦死した深堀藩士六名を祭ったものであったが、その後、第二次世界大戦までの同地区出身の軍人、軍属の戦死者(看護婦を含も。)合計二三〇名を慰霊対象に加えている。
(四) 碑の管理団体
深堀招魂廟奉賛会が管理しているが、同奉賛会は、戦死者の慰霊を行うのが目的で、各町内から二、三名の人が出て構成されている。遺族会も管理に参加している。
(五) 碑の維持管理の状況
月一回、遺族が清掃奉仕している。
(六) 碑に関する祭礼の状況
各町内から二、三名の人が出てつくっている招魂廟奉賛会が、毎年一〇月一七日(深堀神社の祭礼日)に遺族会を招き碑前で慰霊祭を実施している。慰霊祭には、深堀神社の神官が出席し、神式で行われる。
昭和五七年の式次第は、以下のとおりであった。
(1) 着席 (2) 修祓 (3)開扉 (4)献饌 (5)祝詞奏上 (6)祭文奏上((1) 祭主奉賛会長 (2) 地区連合自治会長) (7)玉串奉奠(宮司、祭主連合自治会長及び役員、市深堀支所長、市議、消防団副団長、民生委員、婦人会、老人会等) (8)撤饌(浦安の舞をあわせて行う。) (9)閉扉 (10)遺族代表謝辞(深堀町遺族会長)
出席者は、遺族会を中心に、一般町民有志、約三〇名である。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
招魂廟奉賛会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度は、年一回の祭礼の際の祭典用の供物代として合計三万八一六八円(野菜、米、塩代九四八円、神酒代一万〇五九〇円、饅頭代八五〇〇円、魚代(鯛二匹)九六五〇円)、遺家族へ配付する品物代として(一家族に三〇〇円相当品)五万四〇〇〇円、以上合計九万二一六八円の一部に充当された。
4 番号4裳着神社境内 「殉国慰霊塔」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第四号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二五号証の一ないし九、第三〇号証の一ないし九、第三一号証、証人G、同Hの各証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の裳着神社境内
敷地 裳着神社所有地。碑の敷地面積約三六・三平方メートル
碑文 「殉国慰霊塔」
形状 一辺約三メートルの正方形の基盤の上に、石台座がのり、その上に四角柱の石碑がのる、高さ約四メートルの石碑である。石碑の正面に碑文が刻まれており、その背面には「昭和三三年一〇月建立茂木町長I」と刻まれている。碑のまわりには杉、そてつが植えられている。
同境内には社殿への階段横に「芳名千載 明治三七、八年戦役外征軍人芳名記念」という碑が存在する。右碑は巻物を開いたような形状をしており、戦没者の氏名が刻まれている。
(二) 碑の建立経緯
戦前に碑建立の計画があり、観音堂の上の位置に土地を確保して建立を予定されていたが敗戦により中止され、戦後昭和三三年一〇月に長崎市編入前の旧茂木町により現在地に建立された。
(三) 碑の慰霊対象
旧茂木町出身の日露戦争以降、第二次世界大戦までの戦死者六〇四名である。
(四) 碑の管理団体
碑の所有者、管理者は、茂木遺族会である。
(五) 碑の維持管理の状況
毎年八月一五日に、遺族会が清掃奉仕をしている。
(六) 碑に関する祭礼の状況
毎年八月一五日、九月二三日に殉国慰霊塔と芳名千載の碑の二つの碑を対象にして、慰霊祭を実施している。
八月一五日は碑前において、供花、供物を供え、神官を招いて神式で行い、祝詞奏上、玉串泰奠などを約一時間にわたって行った後、正午のサイレンと同時に列席者が黙祷を行う。
九月の慰霊祭は公民館で行われ、「殉国英霊」と書かれた位牌のようなものを寺から持ってきて祭壇に置き、僧侶一名、神官三名が出席し、儀式は神式で行われる。
昭和五六年九月の公民館における慰霊祭の式次第は以下のとおりであった。
(1) 開会の辞(遺族会副会長) (2)修跋 (3)降神 (4)献撰 (5)祝詞奏上 (6)表白文(仏式、僧侶) (7)浦安の舞 (8)祭主祭文(遺族会会長) (9)慰霊のことば(市長ほか) (10)電報披露 (11)玉串奉奠 (12)焼香 (13)抜撰 (14)昇神
出席者は、茂木遺族会会員のほか、市長、市茂木支所長、市議会議長、市議、自治会長、民生委員が参列した。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
茂木遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金は、茂木遺族会が本碑のために行う供花代三〇〇〇円、供物代四万四四〇〇円、清掃謝礼代一万八九〇〇円、以上合計六万六三〇〇円の一部に充当された。
5 番号5三和町大山祇神社境内 「殉国忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第五号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二七号証の一ないし四、乙第一二号証、証人Jの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>の大山祇神社境内
敷地 大山祇神社所有地。碑の敷地面積一一・二二平方メートル
碑文 「殉国忠魂碑」
形状 台座を合わせ高さ約四メートルの石碑で、正方形の敷地をブロック塀で囲んだ中に建っている。石積の台座の上に、約二メートルの石柱状の碑がのっており、碑の正面に「殉国忠魂碑」、碑に向かって左側面に「明治三九年一〇月建設」、同じく右側面に「......西南役ヨリ大東亜戦争......殉国ノ英霊ヲ合紀......」と刻まれている。台座の上の碑の左前には供花台が設けられている。ブロック塀の中には、門柱のところに一対の植樹がなされている。
(二) 碑の建立経緯
明治三九年(一九〇六年) 一〇月に土井首一〇ヶ町(土井首小学校校区住民)によって大山祇神社内に建立された。大正時代中頃、神社移転とともに土井首小学校校庭に移転された。昭和一五年(一九三〇年)、紀元二六〇〇年祭を期して右神社が新築された際、本碑が神社の現在の場所に戻された。
(三) 碑の慰霊対象
土井首地区の西南の役以降第二次世界大戦までの戦死者である。
(四) 碑の管理団体
土井首遺族会が管理する。所有者は土井首連合自治会。
(五) 碑の維持管理の状況
土井首遺族会会員が当番制で毎月一日と一五日に清掃、供花を行っている。
(六) 碑に関する祭礼の状況
以前は、連合自治会が主催し、遺族を招待して、昭和四三年から昭和四五年までは神式で、その後昭和五六年までは唯念寺において仏式で行っていた。昭和五八年からは自治会が関与しなくなって従前からの祭礼はなくなった。
遺族会独自には、本碑の前で毎年八月一五日に全国追悼式に合わせて行う。碑前に遺族会旗と半旗を掲げて集まり、供花、神酒、その他の供物、線香を供え、会長の挨拶、慰霊の言葉が述べられ、市長代理として市土井首支所長が献花し、言葉を述べ、全員で参拝する。神主僧侶などは呼ばず、参加者がそれぞれの好みの方式(拍手、焼香、黙祷など)で参拝し、正午にラジオに合わせて黙祷する。
参加者は、遺族会会員約二〇名である。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
土井首地区遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度は、毎月一日、一五日の二回の供花代(一回五〇〇円) 一万二〇〇〇円、清掃代(一回三人に一〇〇〇円)二万四〇〇〇円、年一回八月一五日の供物代一万二〇〇〇円、以上合計四万八〇〇〇円の一部に充当された。
6 番号6福田天満神社境内 「忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第六号証の一ないし三、成立に争いのない甲第一六号証の一ないし七、乙第一三号証、証人Kの証言、検証の結果並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の福田天満神社境内。「招魂記念碑」と並んで建っている。
敷地 福田天満神社所有地。碑の敷地面積二八・六七平方メートル
碑文 「忠魂碑」
形状 自然石を三個積んだ台座の上に高さ一・三四メートル、幅〇・九六メートルの自然石の石碑をのせてあり、台座を含めた高さは二・三メートルである。
本碑の背後には慰璽簿を収めている社殿風の霊璽簿収納所があり、右霊璽簿収納所への四段の段階を隔てて本碑と対になる位置に「招魂記念碑」という自然石を五段に重ねた碑が建っている。霊璽簿収納所を中心に本碑と右「招魂記念碑」が霊璽簿収納所への階段の門柱のようになる配置である。霊璽簿収納所の左右には榊が対になるように植えられている。また本碑に向かって左側脇に戦死者の墓碑様の石碑が四基建っている。
(二) 碑の建立経緯
福田村在郷軍人分会により大正一〇年(一九二一年)二月一一日、<地名略>丸木墓地の西端に建立されたが、昭和三一年八月に台風で倒壊した。その後、再建のため募金なども行われたが再建に至らずにいたところ、昭和四一年、当時の連合自治会長が各種団体、地区住民の協力を得て、福田天満神社所有地を借り、現在地に移転再建した。
なお、本碑横の「招魂記念碑」は大正三年(一九一四年)ころ日清日露戦争の戦没者の霊を慰めるため在郷軍人会が建立した。
(三) 碑の慰霊対象
福田地区の戦没者
(四) 碑の管理団体
福田地区連合自治会が所有、管理する。
(五) 碑の維持管理の状況
福田天満神社に清掃を委託している。
(六) 碑に関する祭礼の状況
毎年三月二五日に碑前において、慰霊祭を実施する。福田天満神社の神主を呼んで神式で行われ、その式次第は以下のとおりである。
(1) 修祓 (2)開扉(慰璽簿を収めてある慰璽簿収納所の扉を開く。) (3)招神 (4)献講 (5)祭詞奏上 (6)玉串奉奨 (7)徹撰 (8)閉扉
参加者は、戦没者遺族、地区連合自治会会長、地区内民生委員、来賓など約一一五名である。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
福田地区連合自治会
(八) 補助金の使途
昭和五八年度の補助金は、年一回の供花代七〇〇〇円、供物代(野菜、果物五八〇〇円、配布菓子九〇円×二八〇)三万一〇〇〇円、清掃委託代五〇〇〇円、以上合計四万三〇〇〇円の一部に充当された。
7 番号7古賀八幡神社境内 「殉国慰霊塔」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第七号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二一号証の一ないし七、第六七号証、乙第一四号証、証人Lの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の八幡神社境内
敷地 八幡神社所有地。碑の敷地面積七九・二一平方メートル
碑文 「殉国慰霊塔」。題字は靖国神社宮司によるものである。
形状 多くの自然石を約二メートルの高さに積み上げた台座上に「殉国慰霊塔」と刻まれた高さ約二メートルの大きな自然石の石碑がのっている。台座の正面には、焼香台が設けられ、その左右には供花台がある。焼香台の上に「古賀村出身殉国者」として「日露戦争、台湾藩族征伐、青島戦争、太平洋戦争」の各戦死者氏名を刻んだ戦死者氏名板が埋め込まれている。碑の周囲には手入れが行き届いたつげ、さつき、まきなどの植木が植えられている。碑の建立趣意を刻んだ板も埋め込まれており、右板には「この慰霊塔は遠く日露の戦役から太平洋戦争に至る祖国の難に殉ぜられた百七十余柱を合祀その霊を永にお慰めするため村民の赤誠を結集して建立致したのであり...... 古賀村殉国慰霊塔建設協賛会」と刻まれている。
碑への参道人口には石灯篭が建っており、右灯篭は、寄付者氏名を刻んだ寄付者名碑となっている。
また、本碑の横には、「大正三、四年戦役記念碑」が建っている。
(二) 碑の建立経緯
長崎市編入以前の旧古賀村において、昭和二九年に古賀村殉国慰霊塔建設協賛会が村会で設立され、村民に諮り費用を全戸に割当で寄付を集め、村出身者その他の寄付も受けて、昭和三〇年二月五日に建立された。植木類、庭園の築造は、古賀植木園芸組合の奉仕によって造られた。
(三) 碑の慰霊対象
日露戦争以後第二次世界大戦までの古賀地区出身の戦没者
(四) 碑の管理団体
古賀地区遺族会が管理所有している。
(五) 碑の維持管理の状況
遺族会が、毎月一回清掃を行っている。植木は、一遺族によってせんていされている。
(六) 碑に関する祭礼の状況
古賀地区遺族会が毎年四月三〇日に慰霊祭を行っている。
福瑞寺から住職、伴僧両名を呼び、碑前で仏式により行う。式次第は、(1)着席 (2)開会の辞 (3)一同礼拝 (4)黙祷(死亡会員に対し) (5)読経 (6)慰霊の辞(会長、市長) (7)焼香(会長、市長、市議、来賓、役員、一般会員) (8)会長挨拶 (9)礼拝 (10)閉会の辞である。
参加者は、遺族会、県市連合遺族会会長、戸石、矢上遺族会会長他来賓である。
碑前での式終了後、式場を福瑞寺に移し、
同寺において法要を行う。
同寺では、(1)着席 (2)開会の辞 (3)読経 (4)焼香 (5)閉会の辞の式次第で行われる。
また、八月一五日には、慰霊塔前に、市役所関係者一名、役員一五名の計一六名が参集し、同所において、(1(1)着席 (2)開会の辞 (3)礼拝 (4)読経 (5)焼香 (6)黙祷(正午、汽笛と同時に慰霊塔及び靖国神社合札の英霊に対し一分間の黙祷を行う) (7)閉会の辞の式次第で行われ、終了後、一同昼食を共にして散会する。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
古賀地区遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、一月一回の供花代合計二万四〇〇〇円(一回二〇〇〇円)、供物代一万四〇〇〇円、毎月一回の清掃謝礼代合計一万二〇〇〇円(毎月一回一〇名参加、一人一〇〇円宛)。以上合計五万円の一部に充当された。
8 番号8矢上神社境内 「殉国慰霊塔」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第八号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二三号証の一ないし七、乙第一五号証、証人Mの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の矢上神社境内
敷地 矢上神社所有地。碑の敷地面積七八平方メートル。
碑文 「殉国慰霊塔」。なお、以前は後記のとおり「忠魂碑」であった。
形状 高さ約二メートル程度の石積の台座の上に、戦死者の氏名を刻んだ長方体の石を積み、さらにその上に自然石に「殉国慰霊塔」と刻んだ石碑がのせられている。高さは、約四メートルである。台座の周り正面を除いた三方には石柱の囲柱がある。碑の台座正面左右には、石灯籠があり、台座正面には供花、焼香台がある。
(二) 碑の建立経緯
昭和九年(一九三四年)に矢上村在郷軍人分会が日清日露戦争から第一次世界大戦までの戦没者慰霊のために、現在の東長崎中学校校庭に「忠魂碑」として建てた。戦後もそのままであったが、その後校庭が狭くなったという理由から、昭和三三年一月に現在地に移転された。
移転の際に、碑文を「忠魂碑」から現在の「殉国慰霊塔」に彫りなおした。
(三) 碑の慰霊対象
矢上地区出身の戦没者二七二名、原爆犠牲者(学徒報国隊) 一二名
(四) 碑の管理団体
矢上地区遺族会が管理。
碑の所有は矢上校区自治会連合会
(五) 碑の維持管理の状況
矢上地区遺族会婦人部が毎月二回清掃を行って、供花している。
(六) 碑に関する祭礼の状況
年一回、四月から五月の日曜日に、矢上校区自治会連合会及び矢上地区遺族会が共催して、慰霊祭を行う。矢上神社の神官を呼んで、神式で行う。
神事の際は、碑の周りに注連縄を張り巡らし、祭壇を碑前に設けて、その上に榊木と「殉国忠霊賽銭」と書かれた賽銭箱が置かれる。
式次第は、(1)開会のことば (2)一同礼拝(黙祷) (3)君が代斉唱 (4)献花 (5)修祓 (6)降神 (7)祝詞奏上 (8)祭文 (9)慰霊の言葉 (10)玉串奉奠 (11)撤饌 (12)昇神 (13)閉会のことばである。
その後、銃剣道有志による奉納銃剣道が披露されろ。
参列者は矢上校区自治会連合会、矢上地区遺族会など一二〇名。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
矢上地区遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の四万円は、毎月一回の供花、清掃代として、供花代合計一万二〇〇〇円、清掃代合計二万五二〇〇円(一回に三名参加、一人七〇〇円宛。)、供物代一万六四〇〇円、以上合計五万三六〇〇円の一部に充当された。
9 番号9戸石神社敷地内 「殉国慰霊塔」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第九号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二二号証の一ないし一一、乙第一六号証、証人Nの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の戸石神社敷地内
敷地 戸石神社所有地。碑の敷地面積三二平方メートル
碑文 「殉国慰霊塔」
形状 磨いた石を積んだ台座の上に「殉国慰霊塔」と刻まれた磨石の碑がのっている。高さ約四メートルの碑である。碑背面には、「昭和三十一年十月吉日戸石地区民一同建之」と刻まれている。また、台座部分には「殉国者芳名」として戦没者塔の氏名が刻まれている。
なお、戸石神社内には、本碑の他に、本碑と離れた神社鳥居近くに「明治二七年従軍記念会之碑」、「日露戦役従軍記念碑」、「大正三、四年従軍祈願記念」という三碑が建っている。
(二) 碑の建立経緯
戦前に在郷軍人会や町の有志により日清日露の戦死者をしのんだ碑が戸石神社に建立されていた。昭和三一年一〇月に戸石地区民が碑を新しく建て直し、戦死者芳名銘板に新たに第二次世界大戦戦死者と原爆死者を加え、新しく建立した。さらに、昭和五七年の長崎大水害犠牲者の名も刻んだ。
(三) 碑の慰霊対象
日清日露戦争の戦死者二名及び第二次世界大戦戦死者一七五名、及び水害犠牲者
(四) 碑の管理団体
戸石地区連合自治会が所有管理。
(五) 碑の維持管理の状況
連合自治会で二日毎に清掃、月四、五回供花する。
(六) 碑に関する祭礼の状況
戸石地区連合自治会が毎年四月又は五月に本碑の前で慰霊祭を実施している。矢上神社の神官を呼び、神式で行われる。慰霊祭には遺族会を招待している。
式次第は、(1)開会の辞 (2)一同拝礼 (3)君が代斉唱 (4)修祓 (5)降神の儀 (6)献饌 (7)祝詞奏上 (8)祭文 (9)玉串奉奠 (10)電文披露 (11)徹饌 (12)昇神 (13)主催者挨拶 (14)謝辞 (15)一同礼拝 (16)閉会のことばである。
慰霊祭の参列者は、遺族、元軍人、町の長老者、戸石地区自治会長、部落長など約二〇〇名である。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
戸石地区連合自治会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、毎月二回の供花代金一万二〇〇〇円、慰霊祭の時の供物代三万九七四五円、以上合計五万一七四五円の一部に充当された。
10 番号10小ケ倉町大山祇神社境内 「忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第一〇号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二八号証の一ないし七、証人Oの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の大山祇神社
敷地 小ケ倉町共有物管理組合所有地。碑の敷地面積四五平方メートル
碑文 「忠魂碑」
形状 自然石を基石として、その上に自然石に「忠魂碑」と刻んだ石碑がのっている。高さは約二メートルである。石碑に向かって左側面には「小ケ倉村在郷軍人分会」、右側面には「大正四年二月建之」と刻まれている。
(二) 碑の建立経緯
大正四年(一九一五年)二月、小ケ倉村在郷軍人分会が建立したものである。
(三) 碑の慰霊対象
小ケ倉地区の戦没者。日露戦争戦没者二名、第二次世界大戦戦没者六九名、学徒報国隊六名、徴用者一名、その他一名、合計七九名
(四) 碑の管理団体
小ケ倉地区遺族会が管理。
所有者は不明
(五) 碑の維持管理の状況
遺族会が毎月一日、一五日の二回清掃を行って、供花する。
(六) 碑に関する祭礼の状況
昭和五七年までは、小ケ倉地区自治会連合会、小ケ倉地区遺族会が主催して神式又は仏式にて、碑前で慰霊祭を実施していたが、昭和五八年に遺族会会長が変わってから、慰霊祭は実施していない。
以前に実施されていた慰霊祭の参列者は、連合自治会会長、各自治会会長、民生委員ほか、約八〇名であった。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
小ケ倉地区遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度補助金四万円は、毎月一日、一五日に掃除して供花する代金として、供花代二万四〇〇〇円、清掃謝礼代三万六〇〇〇円(毎回三名参加、一人五〇〇円宛。)、以上合計六万円の一部に充当された。
11 番号11養国寺境内 「忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第一一号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二四号証の一ないし八、第七〇号証の一、二、乙第一七号証、証人Pの証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>所在の養国寺内
敷地 養国寺所有地。碑の敷地面積五・七六平方メートル
碑文 「忠魂碑」
形状 ブロック積みの台座の上に、自然石をのせてある。台座背面には、明治以降の戦死者、原爆犠牲者、学徒動員犠牲者の氏名が刻まれている。また、台座の中には、遺族会会長が個人的に戦死者全員の戒名を記載して納めてある。
(二) 碑の建立経緯
昭和七年(一九三二年)ころ、長崎市編入前の旧<地名略>出身の戦死者慰霊のため<地名略>在郷軍人会が日見小学校に建立した。碑は、終戦後撤去され、碑の石はどこかに置かれていたが、昭和二六年、小学校改築の際に、日見遺族会及び有志により右石碑を用いて養国寺内に再建され、昭和五七年、養国寺の改築によりさらに同寺境内の現在地に移転された。
(三) 碑の慰霊対象
日見地区の明治以降の戦没者、戦争犠牲者。陸軍八九名、海軍一九名、陸軍軍属四名、海軍軍属六名、原爆犠牲者一四名。
(四) 碑の管理団体
長崎遺族会日見支部が所有管理している。
(五) 碑の維持管理の状況
遺族会会員が随時清掃、供花を行うほか、養国寺に管理を委託している。
(六) 碑に関する祭礼の状況
日見遺族会が主催し、春秋の彼岸の中日に、養国寺の住職、伴僧が出席して仏式で慰霊祭を行っている。ろうそく、供物、供花を供え、読経、焼香し、御詠歌が詠ぜられる。参列者は戦死者遺族、日見養国寺詠唱会、有志である。参列者には遺族会から網場まんじゆうが配られる。
なお、養国寺は、江戸時代に三代将軍がキリシタン禁制政策から長崎近郊に寄進した一二寺の一つであり、日見在住の遺族は殆どが同寺の門徒である。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
長崎遺族会日見支部
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、毎月一回の供花代一万二〇〇〇円、春秋の彼岸会時の供花代五〇〇〇円、供物代一万五〇〇〇円、清掃管理料五〇〇〇円、線香、ろうそく代三〇〇〇円、合計四万円に使用した。
12 番号12三重皇大神宮神社境内
原本の存在及びその成立に争いのない甲第一二号証の一ないし三、成立に争いのない甲第一七号証の一ないし一七、乙第一八号証、証人Qの証言、検証の結果並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
補助金支出の対象となっている碑は、(1)「忠魂碑」(2)「慰霊之碑」の二碑あり、二つの碑が同一場所に並んで建っている。
所在 市内<地名略>所在の皇大神宮神社境内
敷地 皇大神宮神社所有地。碑の敷地面積三八・四平方メートル
碑文 (1) 「忠魂碑」
(2) 「慰霊之碑」
形状 (1)忠魂碑
高さ約二・六五メートルの石積みの台座の上に高さ一・七メートル、幅〇・七五メートル、奥行〇・八メートルの自然石の碑をのせたものである。台座を含めた高さは四・四メートルである。台座背面に「御大典記念之為建之 昭和三年十一月 三重村」と刻まれている。
(2) 慰霊之碑
約一・九メートルの台座の上に、正面に「慰霊之碑」と刻まれた石碑(高さ〇・六五メートル、幅一メートル、奥行約〇・四メートル)をのせ、その周り三方に囲柱が建っている。台座の正面には「過去累次の戦役に故郷より征て行きその尊き生命を祖国の難に捧げられた吾がいとし子の父の夫のはらから達の遺勲遺徳を顕彰しそのみ魂永久に鎮りませと祈りつこの碑を建立し平和への悲願をこめて慰霊感謝の誠を捧げまつる昭和四十二年二月 三重村遺族会 いしぶみに 涙なむけて をがむらし かへりを待ちし 親も妻子も」と刻まれた石板が埋め込まれ、その前に焼香台、供花台がある。
二 碑に向かって左側に忠魂碑が建ち、右側に慰霊之碑が建っている。二碑の間に、戦死者名を刻んだ「第二次世界大戦殉国者記名碑」という石碑が建ち、三碑の周りを玉垣としてブロック塀が囲み、三碑が一体となって建っている。
(二) 碑の建立経緯
(1) 忠魂碑
昭和三年(一九二八年)一一月、旧三重村が現在地に建立した。戦後のいわゆる神道指令でも撤去されず、現在に至っている。
(2) 慰霊之碑
昭和四二年二月、三重遺族会が現在地に建立した。
(三) 碑の慰霊対象
二 碑とも、三重地区の第二次世界大戦戦死者二五〇名、明治大正年間の戦没者九名
(四) 碑の管理団体
二 碑とも、長崎市三重遺族会が管理している。
(五) 碑の維持管理の状況
毎月一日、一五日に管理を任された者が清掃、供花する。年二回、八月一五日と慰霊祭が行われる一一月に遺族会会員等により大掃除を行う。
(六) 碑に関する祭礼の状況
三 重地区は昭和四八年町村合併で長崎市に編入されたが、編入以前は三重村が主催して慰霊祭を実施していた。編入後、三重遺族会、三重地区自治会が参加して、長崎市三重地区殉国慰霊奉賛会を作り、同会が主催して毎年一一月に慰霊祭を行っている。慰霊祭は神官を呼んで神式で行うが、内容は護国神社長崎県奉賛会の方式に準じていろ。
式次第は、(1)開会の辞 (2)献灯 (3)献華 (4)君が代斉唱 (5)修跋 (6)招魂の儀 (7)献饌 (8)一拝 (9)祝詞奏上 (10)「国の鎮」の奏楽 (11)式辞 (12)追悼のことば (13)慰霊電報披露 (14)玉串奉典 (15)昇魂 (16)撤饌 (17)一拝 (18)謝辞 (19)閉会の辞である。
三 重遺族会、奉賛会の各会員ら一四〇名くらいが出席し、市社会課長、市三重支所長が列席する。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
三 重遺族会
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、年間を通じての責任者を定めてその者に管理を依頼するが、その清掃管理代二〇〇〇〇円、毎月の供花代七二〇〇円、慰霊祭時の供物代一万円、慰霊祭の前日の清掃代八三〇〇円、以上合計四万五五〇〇円の一部に充当された。
13 番号13長崎公園 「忠魂碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第一三号証の一ないし三、成立に争いのない甲第二〇号証の一ないし六、乙第二〇号証、弁論の全趣旨により真正に成立したことの認められる甲第五七号証、証人A、同Rの各証言によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
所在 市内<地名略>長崎公園内
敷地 国有地であるが、市が公園用地として借用管理している。碑の敷地面積は二五平方メートル
碑文 「忠魂碑」。
形状 正面に「長崎奉公会」の銘板が埋め込まれた台座の上に薬きよう付弾丸のような形状の碑本体がのっており、右胴体に「忠魂碑」の砲金鋳物が埋め込まれている。右銘板の「長崎奉公会」の文字は「陸軍大将S」の書による。碑の高さは約一〇メートルある。台座には「再建の記 この忠魂碑は昭和五年三月十日長崎奉公会によって 明治戊辰役以来の長崎市出身戦没者の慰霊顕彰のため創建せられたもので 碑銘は元帥海軍大将伯爵Tの書である ところで不幸にも 大東亜戦争の悲運によって本碑はとり除かれて台座のみを残した かねて 殉国者の忠魂慰霊顕彰と祖国の伝統継承を念願する有志一同 明治維新百年を記念して これが復元を発起し 広く心ある市民並びに関係官公庁の協賛を得て ここに再建したものである 昭和四十三年三月十日」との銘板が埋め込まれている。
(二) 碑の建立経緯
本碑は、昭和五年(一九三〇年)、戊辰の役以来日独戦争(第一次世界大戦)までの長崎市出身の戦没者を慰霊するものとして、長崎奉公会により市内諏訪公園(現長崎公園)丸馬場の現在地に建立された。長崎奉行会は、明治三七年(一九〇四年)、日露戦争にともない県知事が初代会長となり銃後の事務幇助を目的としてつくられ、翌明治三八年(一九〇五年)、日露戦争の終結とともに解散した会であったが、大正三年(一九一四年)、第一次大戦開戦による日独戦争にともない、県知事を会長、市長を副会長として、長崎市奉公義会という名称で再建され、翌大正四年(一九一五年)日独戦争終結とともに事務を閉鎖したが、会そのものは解散せず、以後、在郷軍人会を主体として存立した。そして、昭和五年(一九三〇年)本碑を建立し、同年三月一〇日除幕式を挙行し、その後の戦没者も招魂して祀られた。毎年二月一一日には碑前で銃剣道の奉納等が、また三月二一日には招魂慰霊顕彰の行事が行われていた。
その後、第二次世界大戦の末期から終戦直後にかけての間に、台東のみを残して忠魂碑の本体が撤去されて台座の横に埋められた。
昭和四二年、長崎市長、長崎市議会議長、長崎商工会議所会頭、諏訪神社宮司兼長崎県護国神社宮司、長崎市旧在郷軍人会代表、日本郷友連盟長崎県支部会長、長崎市郷友会長、長崎市水交会代表が発起人となって長崎市忠魂碑復元委員会を発足させ、同会が翌昭和四三年三月本碑を再建した。右再建のための準備打合会には県援護課職員、市社会課職員、旧在郷軍人関係者、諏訪神社宮司、民生委員協議会、市遺族会、自治会、隊友会、県護国神社、日本郷友連盟長崎県支部、市郷友会、水交会、その他が参加した。また、再建に当たっては可能な限り撤去前の碑を再現するため、「忠魂碑」の文字は、県援護課の調査によってTの書によることが判明した佐世保市内に存在する忠魂碑から、佐世保市消防局の応援を得て「忠魂碑」の文字を拡大撮影して、それをもとに本碑の忠魂碑銘を作成し、埋められていた忠魂碑の本体部分は陸上自衛隊の協力を得て掘り出した。本碑復元再建の完成により同月一〇日「除幕式ならびに慰霊式」として式典が行われた。その式次第は、以下のとおりであった。
(1) 一同着席 (2)神職着席 (3)開会の辞 (4)君が代斉唱 (5)修祓 (6)除幕 (7)降神 (8)献饌 (9)祝詞奏上 (10)国の鎮め吹奏 (11)祭文奏上 (12)遺族代表慰霊の辞 (13)来賓慰霊の辞(県知事、市長) (14)電文捧呈 (15)玉串奏奨 (16)撤饌 (17)昇神 (18)復元工事経過報告 (19)感謝状贈呈 (20)主催者挨拶 (21)遺族代表謝辞 (22)少年剣道銃剣道奉納 (23)閉会の辞 (24)神職退場
本碑は、同年五月、右復元委員会から長崎市に寄贈された。なお、その際に長崎市長から復元委員会委員長宛に「長崎公園忠魂碑の寄贈について(お礼)」として「......このたびかねて復元中の忠魂碑が完成せられましたが早速本市にご寄贈いただき誠に有難うございます。建立場所の長崎公園は諏訪神社に隣接し港内外を俯瞰する景勝の地であり、いままた忠魂碑のご寄贈により一段とその歴史的文化的な教養施設としてあるものと思います。なお、受納後の維持管理につきましては当市においてできる限りの努力をいたし貴委員会のご厚意に報いる所存でございます。」との礼状を出している。
(三) 碑の慰霊対象
戊辰の役以降の戦死者、軍属、
看護婦等の殉職者一万七〇〇余名
(四) 碑の管理団体
日本郷友連盟長崎県支部(長崎県郷友会)が管理者となっている。前記のとおり復元委員会が碑を市に寄贈したので碑の所有者は長崎市である。
(五) 碑の維持管理の状況
市が公園清掃時に併せて清掃している。
(六) 碑に関する祭礼の状況
県郷友会を主体として、元軍人の団体、遺族が出席し、毎年五月二三日ころに碑前で慰霊祭が実施される。
慰霊祭は諏訪神社の神官を呼び神式で行われる。式次第は、県郷友会が管理する佐古梅ケ崎招魂社での慰霊祭と同様で、(1)修祓 (2)降神 (3)献饌 (4)祝詞奏上 (5)来賓挨拶 (6)玉串奉奠 (7)昇神 (8)閉式の言葉である。
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
日本郷友連盟長崎県支部(長崎県郷友会)
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、年四回の供花代二万円、供物代二万四九〇〇円、以上合計四万四九〇〇円の一部に充当された。
14番号14佐古梅ケ崎招魂社「軍人軍属合葬之碑」「振遠隊戦士遺髪碑」
原本の存在及びその成立に争いのない甲第一四号証の一ないし三、成立に争いのない甲第三六ないし第三八号証、第三九号証の一ないし三、第四〇号証の一ないし六及び八ないし二四、第四一号証の一ないし三、第四二号証、第四三号証の一ないし一三、第五〇号証、第五一号証の一ないし四、乙第一九号証、第二四号証、弁論の全趣旨により真正に成立したことの認められる甲第四五ないし第四八号証、第六一号証、第六二号証の一ないし三、第六四号証の一、二、証人A、同R、同Uの各証言並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
(一) 碑の現況
佐古梅ケ崎招魂社跡地(佐古梅ケ崎招魂社と呼称されているが、後述のとおり、佐古梅ケ崎招魂社跡地と認められる。)内には複数の石碑、墓石等があるが、補助金の交付対象とされている碑は、(1)「振遠隊戦士遺髪碑」及び(2)「軍人軍属合葬之碑」の二碑である。
所在 二碑とも市内<地名略>所在の佐古梅ケ崎招魂社跡地(佐古梅ケ崎墳墓)内
敷地 市有地。招魂社跡地の敷地面積は五七九・八六平方メートル。昭和二六年、長崎市が仁田小学校の拡張のため当時一筆であった招魂社跡の敷地を取得し、昭和二七年招魂社跡地の広場を敷地として校舎を建築し、昭和四三年、右小学校敷地部分と碑が建っている招魂社跡地部分を分筆した。以上の経緯で現在招魂社跡地の敷地が市有地となっている。
碑文 (1)振遠隊戦士遺髪碑
碑の上部に「振遠隊戦士遺髪碑」、その下に、漢文で碑に祀られている戦死者がどのような戦で死去したかを記したあと、「勤王之功蓋亦不可謂非我隊戦死諸人之力矣」と記され、さらに碑を建立しな有志の名が記されている。
(2) 軍人軍属合葬之碑
碑の上部に「軍人軍属合葬之碑」、その下に漢文で軍人軍属が当地に合葬された経緯等が記されている。
形状 (1)振遠隊戦士遺髪碑
招魂社跡地中央にある高さ約一メートル程の天然の岩の上に、コンクリート製と思われる一段の台座がのり、その上に、平べったい石碑がのっている。碑の正面には、前記のとおりその上部に「振遠隊戦士遺髪碑」、その下に漢文が刻まれている。碑の背面には大きく「振遠隊中」と刻まれでいる。
(2) 軍人軍属合葬之碑
招魂社跡地中央にある高さ約一メートルの天然の岩の上に、二段の台座がのり、その台座の上に高さ約二・五メートルの正四角柱の石柱状の碑がのっている。碑の正面には、前記のとおりその上部に「軍人軍属合葬之碑」、その下に漢文が刻まれている。碑の側面、背面には、合葬された軍人軍属の氏名と思われる役名と氏名が多数刻まれている。
招魂社跡地内は、後記のとおり明治一四年(一八八一年)の合葬の議により工事された当時の状況が残っており、敷地は三段に分かれ、第一段(最上段)の中央に、軍人軍属合葬之碑(以下「合葬碑」ともいう。)、同碑に向かってその後方に台湾役戦病死者の墓碑、左に台湾役戦歿碑、右に征台軍人墓碑、台湾役戦歿と合葬碑の間に振遠隊戦士遺髪碑があり、合葬碑の正面は、第三段から第一段まで、石畳及び石階段の参道がある。第二段には、常夜灯用の石灯籠が配置されている。石灯籠は第一段から第三段に四対八基がある。第三段には多数の墓碑が配置されている。また合葬碑の背後には、多数の墓石がある。第三段の下は、石碑等の正面にあたる従前招魂社の広場であった場所で、現在仁田小学校の校舎が建っている5。上の招魂社跡地は他の土地と塀で区切られたり、段差があるなど、招魂社跡地のみが独立しており、同跡地入口には鉄柵の扉が設けられ、同扉には鍵が掛けられている。
(二) 碑の設立経緯
(1) 振遠隊戦士遺髪碑
振遠隊戦士遺髪碑は、長崎にあつな振遠隊の戊辰戦争における戦死隊員を顕彰した碑で、明治一二年(一八七九年)一二月二六日、振遠隊隊員有志が許可を得て当時の梅ケ崎招魂社内に建立した。昭和三六年ころ、梅ケ崎墳墓が佐古墳墓へ合祀された際、本碑も現在地に移転された。
梅ケ崎招魂社は、戊辰の役、奥羽その他で戦死した四三名、及び越後長岡で負傷、長崎病院で死亡した旧鹿児島藩士一名などを埋葬した招魂社兼官営墳墓であった。その由来は、そもそも、明治元年(一八六八年)一一月長崎府知事が楠正成、名和長年の霊を祭る神社として現在の西小島町大徳寺公園の場所に大楠神社を創立した。これより前、明治元年(一八六八年)七月、当時長崎港の警護等に当たっていた「振遠隊」が戊辰戦争に参加して奥羽に出兵し、戦死者一三名、病死者四名を出した。戦死者の遺体は戦地に葬られ墓が造られたが、長崎府は、大楠神社側に招魂場を新設して、同年一二月戦死者の遺物を埋葬して墓碑を建立し、盛大に官祭を執行した。
その後、賊軍(反天皇軍)と間違われて警護兵に殺された者、大砲破裂事故で死亡した者の二名も同墓地内に改葬された。
また、明治二年(一八六九年)五月、戊辰戦争の函館戦役において長崎から発った軍艦が函館沖で攻撃を受けて沈没し、同艦に乗船していた長崎県出身者二六名(その内前記「振遠隊」隊員二名)が戦死した。遺体は、函館七面山に葬られたが、同年六月、遺髪を振遠隊墓地に埋葬して祭祀を執行した。以上の各霊位は大楠神社と合紀されたとして梅ケ崎招魂社と称され、墓碑がある墓所は梅ケ崎墳墓地と称されていた。
さらに、明治七年(一八七四年)、戊辰戦争で負傷し長崎で治療中に死亡した旧鹿児島藩士の遺骨が市内の寺に葬られていることが判明すると同遺骨も寺から移して墳墓に改葬した。そして、明治八年(一八七五年)、墓地の官費維持が許可され、同年一〇月には内務省達で正式に「招魂社」と改称された。なお、前記のとおり、明治一二年(一八七九年)、振遠隊隊員有志が許可を得て「振遠隊戦士遺髪碑」を梅ケ崎招魂社内に建てた。
(2) 軍人軍属合葬之碑
明治七年(一八七四年)台湾の役で、長崎港から日進艦外三隻が兵士を積んで出航したが、戦死者一二名、病死者三〇〇余名がでて傷病者は長崎に収容し治療した。しかし一七六名が病死し、政府の命により長崎県が明治七年(一八七四年)三月ころ病院の側の大徳園の地(現在の大徳寺公園)に招魂場を設け、戦死者九名、病死者三一七名、送還航海中の病死者五五名、合計五四七名を逐次葬った。そして、明治八年(一八七五年)政府主宰で招魂祭が執行された。当時ここは梅ケ崎招魂場と呼ばれた。
この招魂場は最初から招魂社及び墳墓を兼ねた取扱を受け、明治八年(一八七五年)内務省の訓令により長崎県の主管となったが、同年太政官達により招魂社並墳墓費ともに官費維持が許可された。
明治一〇年(一八七五年)西南の役が勃発し、その傷病者を長崎に収容し、死亡した者(出身は全国各地)は右梅ケ崎招魂場に葬っていたところ、死亡者増加で土地が手狭になり現在地(佐古)に、西南の役の戦死、病死の軍人軍属六七一名の遺骨を葬送し、官費支給の墳墓としての佐古墳墓及び佐古招魂場が設置された。さらに明治一二年(一八七九年)、大徳園の梅ケ崎招魂場側の病院拡張にともない、大徳園の遺骨の一部を佐古墳墓に移した。佐古招魂場は従来内務省が直接管理していたが、明治一四年(一八八一年)内務省から長崎県の主管になった。
そして、「征台湾役」戦病死者招魂場を佐古と梅ケ崎に設くのは不便であり、また、前記病院をさらに拡張する必要もあったので、同年、太政官達により梅ケ崎と佐古を全部合葬するの議があり、佐古にあった稲荷神社を移転して、その境内跡地に墓碑五〇〇余基を安んじ、稲荷鎮座跡に軍人軍属合葬碑文を刻した大石碑を建てた。この石碑が「軍人軍属合葬之碑」である。
右佐古招魂社の合葬のための工事は明治一六年(一八八三年)完成し、勅祭が執行された。
完成後の右招魂社の境内は、四段に分かれ、第一段には、「勅撰碑」(軍人軍属合葬之碑)が中央、その後方に台湾役戦病死者の墓碑、左に台湾役戦歿碑、右に征台車人墓碑、台湾役戦歿碑と合葬の碑の間に移葬碑、台湾役戦歿碑の前面に植樹碑や石灯籠が配置され、毎年、定例の祭典がここで行われていた。第二段には、石灯籠が配置された。第三、四段が佐古墳墓地と称された墓地で、三段には西南役の戦死者下士官墓碑が、四段(最下段)には兵士墓碑が配置された。
佐古招魂社費(祭祀科、神饌料など)、墳墓地の修繕及び清掃料は最初から官費維持であった。
大正七年(一九一八年)には、靖国神社合祀中の県在籍者で県下各招魂社祭神以外の一二四二柱を合祀し、軍人軍属合葬之碑の背後に石祠を建設した。
昭和一二年(一九三七年)、新たに満州上海事変の戦死者一二五柱が合祀された。
昭和一七年(一九四二年)梅ケ崎招魂社と佐古招魂社とが合併して梅ケ崎、佐古とは別の地である市内<地名略>に県護国神社が作られた。その結果、梅ケ崎招魂社、佐古招魂社の祭神は護国神社に祭られたとされたが、右各招魂社、墳墓の石碑、墓碑等はそのまま残り、第二次世界大戦後も存続しな。昭和三七年、梅ケ崎墳墓が佐古の地に移転され、それに伴って梅ケ崎墳墓にあった石碑なども移設され、現在の佐古梅ケ崎招魂社跡地(佐古梅ケ崎墳墓)の現況となった。
(三) 碑の慰霊対象
佐古梅ケ崎招魂社内には、「軍人軍属合葬之碑」、「振遠隊戦士遺髪碑」のほか、「征台車人墓碑」等の碑があり、これらの碑に刻まれた軍人(長崎出身者に限らない。)の数は、奥羽鎮圧の戦死者一三名、病死者四名、函館戦役戦死者二六名、西南の役戦死者六七一名、台湾の役戦死者九名、病死者三七二名、満州上海事変戦死者一二五名、護国神社との合祀者一二四二名、合計二六四二名である。
(四) 碑の管理団体
軍人軍属合葬之碑及び振遠隊戦士遺髪碑を含も佐古梅ケ崎招魂社全部を、日本郷友連盟長崎県支部(長崎県郷友会)が管理している。
(五) 碑の維持管理の状況
年二回清掃を行う。
(六) 碑に関する祭礼の状況
軍人軍属合葬之碑前で毎年三月二一日に慰霊祭が挙行されているが、右慰霊祭はもと佐古梅ケ崎招魂社に祭っていた霊を慰霊する佐古梅ケ崎招魂社墳墓慰霊祭として挙行されている。右慰霊祭は、県郷友会も構成団体の一つである佐古梅ケ崎坂本墳墓保存会が執行する。
右慰霊祭の状況は、軍人軍属合葬之碑を取り巻くように四方に竹を立てて注連縄が張られ、合葬之碑の前には祭壇が設けられ、その上に神籬(ひもろぎ)、供物が置かれる。合葬碑の手前にある国旗掲揚ポールに日章旗をあげ、碑の正面にも、二枚の大きな日章旗と旭日旗をひもで張って垂らし、また「長崎県郷友会」ののぼりと県護国神社ののぼりが立てられた。
慰霊祭の式次第は以下のとおりで、県護国神社の神官が出席し、神式で行われる。式に先立ち君が代が県警音楽隊により演奏された。
(1) 修祓 (2)降神 (3)列拝(宮司にあわせ全員起立拝礼) (4)献饌 (5)祝詞奏上 (6)祭主祭文(新地町自治会長) (7)来賓慰霊顕彰の言葉(長崎市長代理) (8)電文奉献 (9)玉串奉奠 (10)撤饌 (11)拝礼(宮司にあわせ全員起立拝礼) (12)昇神 (13)祭主あいさつ (14)遺族代表謝辞 (15)閉式の言葉
(七) 補助金の交付対象及び補助金の使用者
日本郷友連盟長崎県支部(長崎県郷友会)
なお、補助金申請書類は「軍人軍属合葬之碑及び振遠隊戦士遺髪碑」として申請されておらず、「佐古梅ケ崎招魂社、坂本墳墓」と記入され、同記載で処理されている。軍人軍属合葬之碑及び振遠隊戦士遺髪碑は佐古梅ケ崎招魂社跡地(佐古梅ケ崎墳墓)と一体として維持管理されている。
坂本墳墓は、長崎重砲兵大隊の死亡隊員の陸軍墓地であり、一一名の戦傷病死者の墓石がある。同墳墓も日本郷友連盟長崎県支部が管理しており、佐古梅ケ崎招魂社の慰霊祭終了後、同所の供花、供物をもって坂本墳墓に赴き礼拝しているが、坂本墳墓は、本件補助金の交付対象に含まれていない、、
(八) 補助金の使途
昭和五六年度の補助金四万円は、年一回の慰霊祭の供花代四七八〇円、供物代(酒など)五万九五二〇円、年二回の清掃謝礼代一万六七〇〇円、以上合計八万一〇〇〇円の一部に充当された。。なお、その余の四万一〇〇〇円は寄付金でまかなわれた。
四 本件補助金支出が憲法八九条前段、二〇条一項後段の規定に違反する旨の主張について
成立に争いのない甲第一五号証、第三五号証、第七一号証、第七三号証ないし第七六号証、第八四号証、第八六号証、乙第二号証、第二二号証、第二三号証、第二五号証、原本の存在及びその成立に争いのない甲第七二号証並びに公知の事実によれば、以下の事実が認められる。
1 忠魂碑について
(一) 忠魂碑建立の経緯
忠魂碑、招魂碑等の碑文がある碑は、幕末からの国事殉難者に対する慰霊顕彰の運動を背景に、幕末ないし明治初年に建立され始めた招魂碑ないし招魂墓碑がその起源と考えられている。この時期の忠魂碑、招魂碑等は、戦死者の功績を後世に伝えるために建立した一種の表功碑・記念碑の性格をもつものと、魂を招く墓碑として墓に似た機能を果たす招魂墓碑の性格をもつものが混在していた。
いわゆる忠魂碑は、明治一〇年(一八七七年)代の初めから、西南戦争後にその戦没者のためにつくられ、日清日露戦争後、盛人に建立された。これは、対外戦争によって多数の戦没者を出したことで招魂社の創建の動きも強まったが、政府は「招魂社創建ニ関スル件」(明治四〇年二月二三日秘甲第一六号内務省神社局長依命内牒)によって招魂社の設置基準を定め、その祭神は靖国神社合祀の者に限る等の制限を加えたため、戦没者の霊を身近に祭りたいという国民の要望が、碑建立につながったものであった。忠魂碑は、その地域出身の戦没者の霊を慰め、その功績を顕彰するとともに、無縁者(仏)を避けるために、市とか町村の単位で建立された。明治末期までは郡、市町村、地元の有力者、民間団体、或いは官民共同で建てられたが、明治四三年(一九一〇年)、帝国在郷軍人会ができると、それ以後はおおもね在郷軍人会の各分会が建立し、既存のものを含めて管理するようになった。忠魂碑はいわば代表的な名称で、招魂碑、尽忠碑、顕忠碑、表忠碑、忠霊碑、表忠塔など多種の碑がある。
昭和六年(一九三一年)満州事変が勃発し、さらに昭和一二年(一九三七年)日中戦争が始まって、国民の間に再び戦没者を身近の郷土に祭りたいという要望が強まり、昭和一四年(一九三九年)、内務省神社局、陸軍省、海軍省等が打合せ、一市町村を単位として忠魂碑等の記念碑または忠霊塔のいずれか一基の建立を許可する方針を立てたが、陸軍は、忠霊塔を護国英霊の埜域として尊崇の中心とする考えで、忠霊塔の建設を支援した。そして、同年、「皇戦ニ殉ジタル忠死者ノ遺骨ヲ合託シ其ノ忠霊ヲ顕彰スル」(大日本忠霊顕彰会寄付行為)目的で陸軍、海軍、内務省その他の省庁を共同所管とする大日本忠霊顕彰会が設立され、それ以後は忠霊塔の建設が盛んになされた。
(二) 慰霊祭の状況
忠魂碑等の碑は、建立の起源を招魂社と同じくする面があり、碑前で祭紀が神式または仏式で行われていたようであるが、内務省は、神道の権威を保っため神社類似の礼拝対象が無秩序に増えないように配慮し、従軍死亡者のために建立する碑を参拝の目的物とできるかの照会に対1)、「建碑ヲ参拝ノ目的物トナシ、神事又ハ仏式ニヨリ其ノ祭事ヲ経営セントスルハ許可難相成義ト存候。」(明治三一年四月二二日府内務省神社局第一六号回答)と答えるなど、忠魂碑等を参拝対象として認めていなかった。
しかし、明治時代末からは在郷軍人会が主体となり、戦没者遺族のために公葬、慰霊祭など遺族が望も形での宗教儀礼が必要という軍の意向を反映し、忠魂碑等の碑前で、建立の時或いは毎年の決まった日に祭祀、例えば招魂祭、忠魂祭、慰霊祭と呼ばれる神式或いは仏式の祭祀が行われることが多かった。そして、右のような碑前の祭祀は、満州事変以後戦争の開始激化、戦没者の増加にともなって盛んになり、戦没者の遺族に限らず、地域の住民、児童生徒が参列させられるようになり、昭和一〇年(一九三五年)には、国体の本義を明らかにし、教育の刷新をはかるためとして、学校長に児童生徒の参拝が命じられ、終戦まで政府が忠魂碑を礼拝することを奨励し、国民の碑に対する礼拝が日常化した。
(三) 戦後の忠魂碑の取扱いと碑前の慰霊祭
昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総司令部は、日本政府に宛てて、いわゆる神道指令を発しこれにより国家と神社神道との分離が図られたが、政府は、昭和二一年一一月、「公葬について」(同月一日発宗第五一号内務文部両次官通牒)を発し、その中の第四項において、「忠霊塔、忠魂碑その他戦没者のための記念碑、銅像等の建設、並びに軍国主義者又は極端な国家主義者のためにそれらを建設することは、今後一切行わないこと。」とし、現存するものの取扱については、「イ 学校及びその構内に存在するものは、これを撤去すること。ロ 公共の建造物及びその構内又は公共用地に存在するもので、明白に軍国主義的又は極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものはこれを撤去すること。」を指示したが、「戦没者の遺族が私の記念碑、墓石等を建立することを禁止する趣旨ではない。」「一般文民の功労者、殉難者等のための記念碑、銅像等を建設することや、その保存事業を行うことは差支えない。」とした。
さらに、同月二七日、「忠霊塔、忠魂碑等の措置について」(同日警保局長通牒)を発し、「本月一日発宗第五一号内務文部両次官通牒「公葬について」の内第四項中現存する忠霊塔、忠魂碑、銅像等の措置については左記に拠られたい。
一 学校、学校の構内及び構内に準ずる場所に在るものは撤去する。
二 公共の建造物及びその構内又は公共地に在るもので明白に次のような軍国主義的又は超国家主義的思想の宣伝鼓吹を目的とするものはこれを撤去する。
イ 日本天皇は其の祖先、
家柄及び特殊なる起源の故を以て他国の元首に優越するとの教義
ロ 日本国民は其の祖先、家柄又は特殊の起源の故を以て他国民に比し優越し居れりとの教義
ハ 日本諸島は特殊の起源の故を以て他国に比し優越し居れりとの教義
ニ 日本国民を欺瞞し以て戦略戦争に導入し又は他国との紛争解決の為道具としての武力行使を賛美するに役立つ其の他の教義
単に忠霊塔、忠魂碑、日露戦役記念碑等戦没者の為の碑であることを示すに止まるものは原則として撤去の必要はない。」とした。
右通牒により、各地では、学校構内の忠魂碑等に限らず、公共建造物、公共用地内に建てられていた忠魂碑の多くが撤去された。撤去され破壊された碑以外にも、地中に埋められたり、碑文を変えて存続を図った碑もあった。
その後、昭和二七年四月、講和条約が発効して連合国の日本占領が終了したことから、戦後撤去された忠霊塔、忠魂碑等が次々と復元、再建され、また、これと平行して新しい碑も続々と建立された。建立の主体は各地域の遺族会、戦友会で、これを地方自治体が側面から援助する方式が多かったが、自治体自体によって建立された碑もあった。そして、これら復元され、又新たに建立された碑の碑文は「慰霊碑」、「慰霊塔」が多く、「忠魂碑」も少なくないが、その他「殉国慰霊塔」など多種多様である。
政府は、昭和二七年九月一九日、地方自治体からの問い合わせに対し、「戦没者の記念碑等について」(地調第三六号富山県総務部長宛文部省調査局長回答)で「宗教施設又は宗教的行事を伴う施設でない限り、公の機関が殉職者(戦没者を含む)等の記念碑を建設することは、政教分離の原則に抵触しないものと考える。ただし、「忠霊塔」、「忠魂碑」等誤解を招きやすい語はなるべく避けられたい。」との内容を回答を発し、その後も同旨の回答を繰り返したが、各地で建立、再建された碑の碑文は前記のとおり忠魂碑などと銘されたものも少なくない。また、これらの碑前では、神式または仏式或いは神仏合同式等による戦没者慰霊祭が行われている。
当時から、忠魂碑については、これを宗教施設とみる見解、慰霊祭が行われている忠魂碑は宗教施設であるとする見解、宗教施設ではないとする見解等、種々の見解があり、宗教学者の間でも、見解は一致していなかった。
2 忠魂碑一般の宗教施設性について
(一) 戦前における忠魂碑
前記1認定の事実によると、戦前の碑のうち、明治初期に建立された碑及び昭和一四年以降大日本忠霊顕彰会によっていわば国策として盛んに建立された忠霊塔で遺骨、遺髪、遺品などを納めて戦没者をそこに祀り、礼拝の対象とする墓碑に近い性格のものを除いたその他の忠魂碑は、その起源や、西南戦争、日清日露戦争、満州事変など戦争を契機として多く建立されていることに照らすと、もともと当初は慰霊、顕彰のための戦没者の記念碑、表功碑の性格のもので、明治末までは、政府は碑そのものを参拝の対象とすることを禁じていたのであった。それにもかかわらず、一般的に碑前で慰霊祭等が行われ、昭和一四年(一九三九年)の護国神社創建により、国単位の靖国神社、府県単位の護国神社が、軍国主義の精神的基盤となるに伴い、軍事教育、軍事政策上の観点から忠魂碑は死んで神となった忠魂を祀った碑であると捉えられ、碑前では定期的に慰霊祭が執行され、昭和一〇年(一九三五年)以降は、参拝が奨励され日常的に礼拝の対象となっていたことからみると、当時、忠魂碑自体は記念碑としての本来的な性格とともに宗教施設的な性格をも有していたとみることができる。
(二) 戦後における忠魂碑
戦後においては、神道指令等による国家と神社神道との完全分離、昭和天皇のいわゆる人間宣言による天皇の神格性の否定、さらには、衆議院での教育勅語の排除に関する決議、参議院での教育勅語の失効確認に関する決議、日本国憲法の平和主義、国民主権の観念の普及等によって、国民主権、象徴天皇制が定着し、天皇を崇拝し、天皇、国家のために忠節を尽くして死んだ者は神霊となるという、国家神道的、軍国主義的思想は支持を受けておらず、自ら、忠魂碑についての客観的な認識も、右のような社会状況の変化、一般国家の意識の変化に伴って変容していることは明らかである。
ただ、前述のとおり、現在も、忠魂碑の碑前で神式または仏式或いは神仏合同の形式などで慰霊祭が行われている碑が少なくなく、慰霊祭を執り行っている神官等、慰霊祭の主宰者や遺族らには、忠魂碑について戦没者の霊を祭っているとの認識があり、また忠魂碑が戦前において果たした役割から、戦没者の霊を祭った碑であるとの観念を抱いている人もおり、かつまた、碑前において神式または仏式等の特定宗教の儀式方法に則り、神官僧侶等の宗教家によって行われる慰霊祭自体特定宗教とのかかわりのある宗教儀式であるとみられる一面も否定しきれないが、戦後、国家神道体制の解体、戦後民主主義が定着するに従って、国家神道思想もごく限られた人を除いて一般国民の大多数からは次第に消滅し、忠魂、英霊という言葉は、戦前におけるような忠義を尽くして死んだ者の霊、魂という意味が薄れ、むしろ、戦死者等に対する美称の意味に認識、使用され、また「慰霊」という言葉も、本来は霊を慰めるという宗教的観念を含んだ用語であるが、今や一般化し、死人だ人をしのぶ、死んだ人を記念追悼するという非宗教的な意味でも使用されているのも事実であって、多くの国民に宗教意識の雑居性が認められ、宗教的関心度の低い国民一般は、慰霊祭の主宰者、形式のいかんにかかわらず、忠魂碑前の慰霊祭を儀式を通じて戦没者の生前を想起し、記憶を新たにすることにより戦没者遺族を慰籍する社会儀礼的な式典として観念しており、各碑の慰霊祭(慰霊祭が行われていない碑は除く)において、慰霊祭の主催者が述べる慰霊の言葉は、要するに、戦没者遺族に対する慰藉の言葉、戦没者、英霊に対する追憶、悲しい結果をもたらした戦争を二度と繰り返さない決意の披瀝と永遠の平和、繁栄の祈願であって、少なくとも忠魂碑前の慰霊祭が特定宗教の布教、教化、宣伝等を行うものとは考えられてはいない。
そして、戦没者を慰霊対象とした忠魂碑などの慰霊碑以外の慰霊碑、各種の記念碑についても、民間有志団体または個人によって神式、仏式等の宗教儀式の方式による慰霊祭が執行されることがあり、現に長崎市においても、平和祈念像の前で、長崎市主催の無宗教方式による慰霊祭と別途に、民間団体により神式、仏式等の慰霊祭が執行されていろか、このことによって、平和祈念像が宗教施設であると一般には認識されていないことなどに鑑みれば、忠魂碑の碑前において神式又は仏式で慰霊祭が行われることで宗教施設性があるとはいえないのであって、現在においては、忠魂碑は、戦後建立された碑のみならず戦前に建立された碑も、戦没者を追悼・顕彰するための本来的な記念碑に戻っていると認めるのが相当である。
3 招魂社について
明治新政府は、明治元年(一八六八年)、天皇崇拝と神社信仰を宗教的政治思想とし、天皇を政治的正統性の根拠として用い、旧幕府勢力に対抗するために天皇へ忠誠を尽くして死んだ者に対して招魂社を創立し、祭祀を行って祭ることとした。明治二年(一八六九年)六月東京招魂社を創建して戊辰の役における天皇軍の戦没者を合祀し、明治一二年(一八七九年)に東京招魂社は別格官幣社の社格が与えられ、靖国神社と改称された。靖国神社発足の趣旨は、明治維新前の天皇軍の殉難者及び将来天皇、国家のために殉難死する者を神霊たる忠魂として祭る神社とするにあった。他方、明治初めから天皇軍の死者を祭るために、また、靖国神社が創建されてからは、同神社の祭神中その地方に縁故がある戦没者を祭るために各地に招魂社が創建されていたが、明治三四年(一九〇一年)にはそれまで官費で維持されてきた招魂社すなわち官祭招魂社とそれ以外の私祭招魂社に分けられ、そして、昭和一四年(一九三九年)には、そのいずれの招魂社も内務省管轄下に護国神社に改編され、原則として府県一社の府県社に準ずる指定護国神社と、それ以外の村社に準ずる指定外護国神社の制度に改められ、内務省所管であったが、事実上、陸軍省・海軍省所管であった靖国神社の地方分祠となり、伊勢神宮を頂点とする神社体系とともに、靖国神社を頂点とする神社体系を事実上形成し、教典的役割を担った教育勅語と相まって、国教的な取扱を受けた国家神道の普及、拡大に重要な役割を担い、天皇の軍隊として、天皇に忠節を尽くして死人だ者は、同神社に神として祭られ、国民から尊拝されるのみならず、天皇の参拝を受ける栄誉を得るという観念によって、戦場での死を美化することで戦争に国民の意思を統合する機能をはたし、軍国主義の拡大に寄与する面を有した。
4 本件一四碑の宗教施設性について
前記三(本件一四碑に関する事実)で本件一四碑各碑について認定した事実、前記1、2、3の認定、判断を総合すると、本件一四碑の各碑の宗教施設性はそれぞれ以下のとおりであると認められる。
(一) 番号1天主公園「忠魂碑」
本碑は、戦前に建てられた忠魂碑の石碑を用いて、昭和四四年に有志と地元自治会とで結成した浦上地区忠魂碑復元委員会が、市有地天主公園内の一角に建てたものであり、再建後も、碑前で隔年毎に神式、キリスト教カトリック式の交互の方式で慰霊祭が行われているが、慰霊対象には、戦没者のほか、原爆による死亡者を含んでおり、原告が主張するように、現在においても国家神道や軍国主義とのかかわりのある施設とみることはできないのみならず、本碑を維持管理し、これにかかわる者が、自ら選択した神式、カトリック式の宗教儀式によって慰霊祭を行っていることからしても、特定宗教の宗教施設でないことは明らかで、前記忠魂碑一般について説示したところの記念碑である。
(二) 番号2式見小学校「忠魂碑」
昭和一二年(一九三七年)に在郷軍人会式見分会によって建立されたと想定されている碑で、終戦直後、小学校校庭横に所在したため撤去を命じられた碑であろことからして、戦前においては忠魂碑一般について前述したとおり礼拝が強制されて宗教施設的性格をも併せ持っていたと認められるが、本件補助金が支出された昭和五六年当時は、碑前に供花、供物をして、お参りした後、寺で慰霊祭が執行されており、碑自体は慰霊祭という宗教儀式の対象となっておらず、死没者を記念、追悼する記念碑一般と同様、記念碑たる性格を有する碑であると認められる。
(三) 番号3深堀神社境内「招魂廟」
本碑は、明治三年(一八七〇年)の建立で前記忠魂碑一般について述べた以前の碑であって、小さな石の社殿のような形状からしても、招魂廟という名称からも、その前年に東京招魂社(後の靖国神社)が創建されたのに呼応して、戊辰戦争で戦死した郷土出身者の慰霊のために建てられたものであることからも、戊辰戦争による天皇軍戦死者の慰霊のために建てられたものと推認される。
しかし、建立の際に死者の遺骨、遺品等を納めたという事実も認められず、その後、第二次世界大戦までの戦死者をも慰霊の対象者に加え、今日まで一般の忠魂碑と同様な碑として扱われていたものであってみれば、本碑も戦前においてはともかく、敗戦後の神道指令により国家と神社神道とが分離され、平和主義及び民主主義の理念に立つ新憲法のもとにおける国民一般の忠魂碑に対する意識の変容に伴い、本碑の宗教施設的性格は希薄化し、本碑も現在においては、他の忠魂碑と異なるとは認められず、戦没者を追悼、顕彰するための記念碑であるとみることができる。
(四) 番号4裳着神社境内「殉国慰霊塔」
本碑は、昭和三三年に長崎市編入前の旧<地名略>によって、旧<地名略>出身の日露戦争以降第二次世界大戦までの戦死者を慰霊するため建立された碑であり、前記忠魂碑一般について述べた戦没者を追悼・顕彰するための記念碑である。
(五) 番号5三和町大山祇神社境内「殉国忠魂碑」
明治三九年(一九〇六年)に建立され、第二次世界大戦までの戦没者を慰霊対象とする碑であって、前記忠魂碑一般に述べたところが妥当し、戦没者を追悼・顕彰する記念碑である。しかも、昭和五六年当時においては本碑の慰霊対象者の慰霊祭は、碑前ではなく、寺において執行されており、碑前では、遺族会会員が八月一五日に碑前に集まり、供物をして各人好みの方式で参拝しているのであって、特定宗教の儀式を伴うものとはいえず、現在では記念碑としての本来的性格が顕著である。
(六) 番号6福田天満神社境内「忠魂碑」
本碑は、大正一〇年(一九二一年)に当時の<地名略>在郷軍人分会によって建立され、昭和四一年連合自治会長が各種団体、地区住民の協力を得て再建した碑であって、前記忠魂碑一般について述べた忠魂碑であり、同地区の戦没者を追悼・顕彰するための記念碑である。
もっとも、本碑は、その建立位置、慰霊祭の状況から、本碑並びに「招魂記念碑」及び霊璽簿を納めた社殿を小さくしたほこらと一体をなしており、慰霊祭においては、神式により、修祓に続いて慰璽簿を納めたほこらの開扉・さらに招魂という儀式が行われており、一般の忠魂碑とはやや趣を異にしていろものの、記念碑とされる原爆慰霊碑に過去帳を納めている例もあり、前記慰璽簿も戦没者の名簿を記載したものとみることができ、碑前で行われる神式による儀式も、前記忠魂碑一般について述べた神式による慰霊の儀式と異なるものではないから、本碑を宗教施設とみなければならないものではない。
(七) 番号7古賀八幡神社境内「殉国慰霊塔」
本碑は、昭和三〇年に、旧<地名略>出身の日露戦争以後第二次世界大戦までの戦没者を慰霊対象に、旧<地名略>の村会で設立された殉国慰霊塔建設協賛会が建立した碑で、前記忠魂碑一般について述べたところの忠魂碑に該当し、記念碑である。
(八) 番号8矢上神社境内「殉国慰霊塔」
本碑は、昭和九年(一九三四年)に旧<地名略>在郷軍人分会によって建立された碑であり、昭和三三年に現在地に移転されるに際して、碑文を忠魂碑から殉国慰霊塔に彫り直し、原爆犠牲者(学徒報国隊)も慰霊対象としたものであり、忠魂碑一般において述べたところの忠魂碑で記念碑である。
(九) 番号9戸石神社敷地内「殉国慰霊塔」
本碑は、戸石地区に戦前からあった日清日露戦争戦死者をしのんだ碑を、戦後昭和三一年に、第二次世界大戦戦死者と原爆犠牲者を芳名銘板に新たに加え、戸石地区民で建て直したものであり、更に、昭和五七年の長崎大水害による水害犠牲者も慰霊対象に加えられており、慰霊祭が神式で行われているが、地区の戦没者、殉難者、遭難者を追悼する記念碑とみることができる。
(一〇) 番号10<地名略>大山祇神社境内「忠魂碑」
本碑は、大正四年(一九一五年)に旧<地名略>在郷軍人分会が建立した碑であり、前記忠魂碑一般について述べたことが妥当し、同町出身の戦没者を追悼・顕彰する記念碑である。
(一一) 番号11養国寺境内「忠魂碑」
本碑は、昭和七年(一九三二年)ころ旧<地名略>在郷軍人分会が建立した碑で、昭和二〇年の終戦後撤去されたのを、昭和二六年養国寺に再建したもので、前記忠魂碑一般について述べたところが妥当する碑であり、さらに養国寺の改修にともない現在地に移転された際、原爆犠牲者をも慰霊対象に加えているのであり、戦没者、原爆犠牲者を追悼・慰霊する記念碑である。
(一二) 番号12三重皇大神宮神社境内「忠魂碑」「慰霊之碑」
この忠魂碑は、戦前の昭和三年(一九二八年)に旧<地名略>が、慰霊之碑は戦後昭和四二年に遺族会がそれぞれ建立したものであって、戦没者名を刻んだ「第二次世界大戦殉国者記名碑」とともに、三碑一体として建っており、慰霊祭も一体として行われているが、この忠魂碑も前記忠魂碑一般について述べたところが妥当し、戦後、慰霊之碑、第二次世界大戦殉国者記名碑が付加建立されたことでこの忠魂碑の性格に異同を来しているとは認められないから、本碑も、旧<地名略>出身の戦没者を追悼・顕彰する記念碑である。
(一三) 番号13長崎公園「忠魂碑」
本碑は、昭和五年(一九三〇年)に当時の長崎奉公会によって建立され、終戦後に撤去されて埋められていたのを、昭和四三年に復元委員会により復元再建され、これを長崎市が譲り受けて、長崎公園(国有地を市が借用管理)に所有するに至っているものであるが、前記忠魂碑一般について述べたところが妥当する、戦没者、殉職者を追悼・顕彰する記念碑である。もっとも、再建の記によると、「殉国者の忠魂慰霊顕彰と祖国の伝統承継を祈願する有志一同 明治維新百年を記念して」再建され、
その再建のための発起人には、長崎市長、同市議会議長、長崎商工会議所会頭のほかに、諏訪神社宮司兼長崎県護国神社宮司、長崎市旧在郷軍人会代表、長崎県郷友会長、長崎市郷友会長、長崎市水交会代表も加わっており、神職の主宰による除幕式並びに慰霊式もとり行われたこと、そしてその後も長崎県郷友会が事実上管理し、毎年一度碑前で神式による慰霊祭を行っていることが認められるものの、このことから本碑が前記忠魂碑一般について述べたところと異なり、宗教施設と認めるべきものとは思料されない。
(一四) 番号14佐古梅ケ崎招魂社「振遠隊戦士遺髪碑」「軍人軍属合葬之碑」
本件補助金交付の対象となっている「振遠隊戦士遺髪碑」及び「軍人軍属合葬之碑」は、佐古梅ケ崎招魂社跡地に所在するが、軍人軍属合葬之碑の建立の由来によると、同碑は、明治一四年(一八八一年)別の場所に埋葬されていた戦争の戦没者を佐古招魂場に合葬するに際して政府によって建てられた碑であり、同地はもともと招魂社兼官修墳墓であって、碑前で官費によって祭祀が行われていたこと、その後、昭和一七年(一九四二年)に佐古招魂社と梅ケ崎招魂社は別の場所に建立された護国神社に合併されたことによって、台湾戦病死者の墓碑、征台軍人墓碑その他の墓碑及び多数の墓石とともに残り、軍人軍属合葬之碑を中心に常夜灯用の石灯籠が第一段から第三段に四対八基が配置されていること、振遠隊戦士遺髪碑も招魂社兼官修墳墓であった梅ケ崎招魂社に建立されていたもので、戦後、現在地に移設されたものであり、合葬碑、その他の墓碑等と一体となって佐古梅ケ崎招魂社跡を形成していることからすると、軍人軍属合葬之碑及び振遠隊戦士遺髪碑は他の墓碑及び墓石と一体となって、礼拝及び慰霊祭をとり行う招魂社兼墳墓として造営されたものであり、もともと靖国神社の地方分祠としての役割を担った護国神社の前身として国家神道の宗教施設であったものというべきであるから、戦後においてもなお、護国神社の神官主宰で神式の宗教儀式により慰霊祭を行っている以上、単に過去の招魂社跡地の記念碑に性格を変じているとみることはできず、神社神道の宗教的施設と認められる。
5 本件補助金の交付を受ける各碑の維持管理主体の宗教組織・団体性について
本件各碑を事実上維持管理し、神式、仏式、その他の方式(キリスト教カトリック式を併用し、
また無宗教式のもの)で慰霊祭を行っている主体は前記三において認定したところである。
そこで、慰霊祭を行っている各碑の維持管理主体の宗教上の組織・団体性について判断する。
憲法八九条はその前段において、公金その他の公の財産を宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のために支出することを禁止し、また同法二〇条一項後段は、宗教団体に対する特権の付与を禁止しているが、これは同条三項の国及びその機関の宗教教育、宗教的活動禁止の規定とともに、いわゆる政教分離原則を定めたものであるところ、この原則は信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。従って、右政教分離の原則は、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家に宗教的中立性を要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的、文化的諸条件に照らし相当とされる限度を越えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解される一最高裁昭和四六年中第六九号同五二年七月一三日大法延判決・民集三一巻四号五三三頁参照。)。
政教分離原則の趣旨、目的を右のように理解すれば、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体一同法二〇条一項後段にいう「宗教団体」とは宗教的活動を目的とする団体をいうと理解すべきであって、本来このような目的を有しない団体又は組織が、その本来の事業の目的を遂行するうえで臨時的又は定期的に宗教的儀式、行事ないし宗教にかかわり合いのある行為を企画実行しているからといって、このことから前記各法条にいう「宗教上の組織若しくは団体」及び「宗教団体」に該当するものと解すべきではない。
そこで、本件補助金の交付を受けている各遺族会、日本郷友連盟長崎県支部、各連合自治会、浦上地区忠魂碑保存会、招魂廟奉賛会につき、順次判断する。
(一) 式見、茂木、土井首地区、古賀地区、矢上地区、小ケ倉、長崎遺族会日見支部、三重地区各遺族会(番号2、4、5、7、8、10、11、12の碑関係)
成立に争いのない甲第二九号証の一、第七一号証、第七三号証、乙第一号証、第二二号証、
原本の存在とその成立に争いのない甲第七二号証及び証人Q、同G、同Vの各証言によれば、以下の事実が認められる。
本件各遺族会は、長崎市遺族会の各地域ごとの下部組織であり、各地域ごとの軍人、軍属の遺族一家族を一会員とする会員によって構成されているが、市遺族会は各都道府県ごとの独立した法人格を持った遺族会である財団法人長崎県連合遺族会の支部である。そして、県連合遺族会の寄附行為に掲げられた会の目的は財団法人日本遺族会と全く同様であり、会の事業内容も日本遺族会と同趣旨の事業となっている。
ところで、日本遺族会の寄附行為によれば、その目的は、「英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くと共に道義の昂揚、品性の涵養に努め、平和日本の建設に貢献することを目的とする。」とされ、その目的達成のための事業として、「一 英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業 二 遺族の処遇向上に関する事業 三 遺族の生活相談事業 四 遺児の育成、補導 五 昭和二八年法律第二百号により本会に無償貸与された国有財産の管理並びにこれを戦没者遺族の福祉のために利用する事業 六 上京遺族の宿泊所の斡旋、皇居の清掃、拝観その他連絡、指導 七 遺族の表彰その他連絡指導 八 機関紙の発行 九 その他目的達成のため必要と認める事業」を挙げ、同会の英霊顕彰事業の具体的な活動としては、靖国神社国家護持の推進、護国神社、慰霊塔、旧海軍墓地などの維持、奉賛、各種慰霊行為の奉賛、外地遺骨収集の政府事業への協力及び慰霊塔の建立の推進、靖国神社団体参拝、戦跡巡拝の実施、戦没者の遺影、遺品などの収集、遺書などの記録保管と公開、戦没者叙勲の完全実施運動、「戦没者慰霊の日」制定運動、さらに、英霊にこたえる会の設立参加団体となり、同会とともに、靖国神社に対する閣僚らの公式参拝実現をめざす運動がある。
右のように、日本遺族会はその事業の第一に英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業を挙げているが、日本遺族会の成立の経緯は、敗戦前においては軍人恩給の制度があって戦没者遺族の援護が図られ、また戦没者が靖国神社、護国神社に合祀され、公共団体が公葬を行うことなどで、敬弔の意が表され遺族の精神的慰藉も図られていたのに対し、敗戦による戦争終結後の混乱のなかで、働き手を戦場にかり出されて働き手を失った戦没者遺族には生活が困窮するものが多かったものの、軍人恩給は停止され、また、昭和二〇年(一九四五年)の神道指令により、国家と靖国神社との関係が切れ、さらに都道府県、市町村等の公共団体が戦没者の慰霊祭、追悼式を行うことができなくなったため、こうした状況下で戦没者遺族の全国組織結成の動きがおき、昭和二二年一一月一七日、日本遺族厚生連盟が結成されたことに始まり、遺族厚生連盟の運動の結果、昭和二七年に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定されて同年度から戦没者遺族に対する国家処遇が再開されるに至り、昭和二八年に日本遺族厚生連盟が発展的に解消して、法人格を持つ財団法人日本遺族会となったものである。そして、国有財産である九段会館(旧軍人会館)の無償貸与を受け遺族の利用に供するとともに遺族の福利増進をはかるなどして、その事業の主体となっていることが認められる。
以上によれば、日本遺族会は、事業目的の一に英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業を挙げ、二に遺族の処遇向上に関する事業を挙げて団体の主たる目的としているが、右にみたとおりその設立の動機は戦没者遺族の相互扶助、福祉向上にあるというべく、日本遺族会が英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業をその目的に挙げ、現に前記靖国神社国家護持運動の推進などの運動を進め、靖国神社への参拝、忠魂碑など碑前での神式又は仏式での慰霊祭の挙行など宗教にかかわり合いのある行為を行っているものの、これが本来の主目的であるとは考えられないというべきである。要するに日本遺族会は、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主目的とする団体であって、特定宗教の教義を信奉してその信仰、礼拝又は普及などの宗教的活動を目的とする団体とは認められない。
前記のとおり、本件補助金の交付を受ける各遺族会は日本遺族会の下部組織に過ぎず、日本遺族会とは別に、独自の宗教的活動を目的としている組織ではないから、本件補助金の交付を受けている各遺族会が憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」、同法二〇条一項後段の「宗教団体」に該当するとはいえない。
(二) 日本郷友連盟長崎県支部(番号13、14の碑関係)
成立に争いのない乙第二号証、証人Rの証言によれば、日本郷友連盟長崎県支部の上部団体である社団法人日本郷友連盟は、「本連盟の目的趣旨に賛同する旧兵役に服した者及びその他の者をもって組織する」(定款第五条)という旧兵役に服した元軍人を中心的な構成員とした団体で、その目的は、「連盟は内外の情勢を明らかにし、国防思想の普及及び民防衛の促進を図り以て民防衛の体勢を確立すると共に英霊の顕彰及び援護業務の援助を行い、光栄ある我が国の歴史及び伝統を継承助長して祖国の再建に寄与する」(定款第三条)というのであり、その目的達成のための事業として、その定款第四条に、「1国防思想の普及及び民防衛の促進に関する事項 2災害時に於ける救難に関する事項 3英霊の顕彰に関する事項 4道義心の昂揚に関する事項 5福祉の増進及び互助親睦に関する事項 6機関紙、講演会及び研究会に関する事項 7友好諸邦、戦友団体との連絡提携に関する事項 8恩給法の普及並びに一部改正による申請書援助に関する事項 9その他前条の目的を達成するため必要な事項」を挙げている。そして、具体的活動として、日本遺族会等とともに、英霊にこたえる会の設立参加団体となっており、日本遺族会と同様に英霊顕彰事業を行っているが、日本郷友連盟の目的、事業からみて、同連盟が宗教上の組織若しくは団体とみることはできない。その下部組織である日本郷友連盟長崎県支部は、独立の法人格をもつ社団法人であるが、同支部会則は同法人の目的を「本会は連盟の目的達成に務むると共に併せて郷土の発展に寄与することを目的とする。」と定めているものであって、同支部も宗教上の組織若しくは団体に該当しないというべきである。
(三) 福田地区、戸石地区各連合自治会(番号6、9の碑関係)
証人K、同Nの各証言、弁論の全趣旨によれば、自治会は住民の福利増進を目的とし、住民の宗教思想信条等に無関係に、その地域に居住しているということのみをもって地域住民により組織されているものであって、戸石連合自治会も、戸石地区の全世帯が加入しており、自治会費を集め、災害復旧、畑の壊れた箇所、道路の壊れた箇所の修復、河川の氾濫防止、市からの広報の各戸への配布などの活動を行っており、福田連合自治会も同様に地区住民によって組織され、同様の活動を行っているものと認められる。
ところが、原告らは、自治会も宗教行事を実施すれば、宗教上の組織ないし団体というべきであると主張するが、その主張は採用できない。
(四) 浦上地区忠魂碑保存会、招魂廟奉賛会(番号1、3の碑関係)
前記三1認定の事実及び証人Dの証言によると、番号1の碑の浦上地区忠魂碑保存会は、神式、カトリック式交互の方式で碑前の慰霊祭を行っているが、同保存会の構成は、戦没者遺家族、原爆殉難者遺家族、旧山本校区各自治会、旧在郷軍人会等であって、前記認定のとおり、番号1の忠魂碑は宗教施設ではないうえ、同保存会の構成及び慰霊祭の方式からも、特定の宗教活動を目的とした団体とはいえず、宗教上の組織・団体とは認められない。
また、前記三3認定の事実及び証人Fの証言によると、番号3の碑の管理団体である招魂廟奉賛会も、招魂廟の管理及び慰霊を行うための目的で各町内から二、三名宛選出された世話役で構成されているが、その選出母体の町内自治会が宗教団体ではなく、同招魂廟が前記判断のとおり、戦没者の追悼・顕彰のための記念碑であって宗教施設ではなく、碑前における年一度の神式による慰霊祭の施行も宗教的儀式であっても宗教的活動とは認められないから、同奉賛会も宗教上の組織・団体とは認められない。
6 まとめ
以上のとおり、本件補助金の交付を受けている式見、茂木、土井首地区、古賀地区、矢上地区、小ケ倉、長崎遺族会日見支部、三重地区各遺族会、日本郷友連盟長崎県支部、福田地区、戸石地区各連合自治会、浦上地区忠魂碑保存会、招魂廟奉賛会は、いずれも宗教的活動を目的とする組織・団体ではなく、憲法八九条前段の「宗教上の組織若しくは団体」あるいは同法二〇条一項後段の「宗教団体」には該当しないから、右のような各組織ないし団体に対する市の補助金の支出は憲法八九条前段、二〇条一項後段に違反しない。
五 本件補助金支出が憲法二〇条三項に違反する旨の主張について
前記のとおりの政教分離原則の意義に照らすと、憲法二〇条三項にいう「宗教的活動」とは、国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を意味するものではなく、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を越えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧追、干渉等になるような行為をいうと解すべきである。
前記認定判断のとおり、本件で問題とされている一四碑のうち番号14の碑は宗教施設と認められるが、その余の番号1ないし13の碑は宗教施設とは認められず記念碑とみるべきであるから、これを分けて先ず番号1ないし13の記念碑と認められる各碑の維持管理団体に対する本件補助金の支出について判断する。
1 番号1ないし13の碑に関する補助金支出
前述のとおり、本件補助金支出の目的は、戦没者慰霊碑等の維持管理の徹底を図るにあるが、交付対象碑は原告が問題としている本件一四碑の忠魂碑に限られず、原爆関係慰霊碑も本件補助金交付要綱及び交付基準に従って補助金が交付される定めであり、現に本件の一四碑のほかに二五碑の原子爆弾殉難者の碑等(別紙二番号15から39の碑)の維持管理団体が本件補助金の交付を受けており、また、本件補助金交付基準は慰霊祭の執行を交付基準としているけれども、補助金支出についての運用の実態に照らすと、慰霊祭の執行は碑の維持管理がなされていることの主要な一態様としての記述とみることができ、しかも、その慰霊祭の執行を特定宗教の儀式に従って執行することまで要求しておらず、宗教的な儀式とするか、無宗教方式で執行するかは、本件補助金を受ける団体の選択に任されており、現に本件一四碑のうち無宗教式によっているもの、碑前での儀式に替えて他の場所で慰霊祭を行っている団体もあること、そして戦没者慰霊碑及び原爆関係慰霊碑等の維持管理を図り慰霊祭を行うことが、その碑の慰霊対象となっている戦没者の遺族及び原子爆弾犠牲者の遺族等、関係者の精神的な慰藉という社会儀礼にもかなっていることを併せ考えれば、本件補助金の支出は、原告らが主張するように英霊信仰の宗教教育実施目的によるとは到底認められない。そして、本件補助金支出の効果も、番号1ないし13の碑が本来的に記念碑であるから、碑前で神道、仏教、キリスト教など特定宗教の宗教儀式の形式による慰霊祭が行われているものが大半であっても、それは、専ら戦没者の追悼・顕彰のためにするものであって、特定の宗教教義を宣伝し、流布し、鼓吹するものではなく、宗教とのかかわり合いの程度は希薄で、特定宗教の宗教儀式に則って慰霊祭が執行されている原爆関係慰霊碑の場合と大差ないというべきであること、しかも、本件補助金の交付対象たる経費も、碑自体の維持管理に要する清掃代等の経費のほか碑の周囲の植木代、供花、供物代というもので、慰霊祭の神官等に対する謝礼は補助対象経費に含まれておらず、補助金額も一基あたり年額四万円で、不相応に高額とはいえないことに照らすと、番号1ないし13の碑に対する本件補助金の支出が前記各碑を維持管理している者の宗教観念或いは碑に関する慰霊行事を援助助長する効果を伴う一面があるにしても、その効果は間接的なものであり、特定の宗教或いは宗教一般を援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められない。従って、前記各碑に対する本件補助金支出は、右にみたような目的、効果からして、宗教とのかかわり合いが、我が国の社会的、文化的諸条件に照らし信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いまだ相当とされる限度を越えるものとは認めがたい。
よって、番号1ないし13の碑に対する本件補助金の支出は、憲法二〇条三項によって禁止される地方公共団体の宗教的活動にあたらないし、原告らが主張するように、長崎市自身が英霊信仰の宗教教育を実施しているとは認められない。
2 番号14の碑に関する補助金支出
次に、番号14の碑に対する本件補助金の支出について考えるに、この軍人軍属合葬之碑は、礼拝及び招魂、慰霊祭を行う佐古招魂社兼官修墳墓の中心となっていた碑で、梅ケ崎招魂社の振遠隊戦士遺髪碑ともども、その他の墓石等と一体となって招魂社としてもともと国家神道の宗教施設であったこと、この合葬碑の碑前でも佐古梅ケ崎坂本墳墓保存会(本件補助金の交付を受ける日本郷友連盟長崎県支部を構成員としている。)が、例年長崎県護国神社の神官を招き護国神社の神道儀式に則って慰霊祭を行っているが、この碑が宗教施設であり、その碑前の慰霊祭は宗教儀式であって、倫理的社会儀礼的なものとは言い難いこと、その番号1から13の忠魂碑が、その碑の所在する各地区出身の戦没者を追悼、慰霊するために建立されたものであるのに対し、この碑は、必ずしもその所在する地区出身の戦没者とはかかわりがないために、この碑に対する本件補助金の交付は、この碑の慰霊対象となった戦没者の遺家族の精神的な慰藉を図るという面が乏しいこと、そして市がこの碑に対して本件補助金を交付するに当たり、補助金の交付を受ける日本郷友連盟長崎県支部が無宗教式で慰霊祭を行っているものでないことは事前調査により知っていたと推認されるのに、本碑も本件補助金交付の対象碑としたこと、以上の事実からすると、本碑に対して毎年金四万円の本件補助金を支出することは、被告の主観的な目的は他の忠魂碑の場合と異なるところがなかったにしても、客観的にみれば、その目的は特定宗教施設そのものの維持管理であり、その効果も、市自身が直接慰霊祭を執行するものではないものの、招魂社、護国神社と深いかかわりをもった宗教施設に対し、その神社の儀式による慰霊祭の費用の一部を援助する結果をもたらしている点で、特定宗教を市が援助、助長する効果も有するものであると言わざるを得す、番号14の碑についての本件補助金の支出は、公共団体たる長崎市が宗教的活動をした場合に当たると評価せざるを得ない。従って、番号14の碑の維持管理団体に対し、本件補助金を支出することは、憲法二〇条三項に違反する。
六 本件補助金支出が地方自治法二三二条の二の規定に違反する旨の主張について
地方自治法二三二条の二は、普通地方公共団体は、その公益上必要がある場合においては、補助をすることができると定めている。
これを、本件補助金の支出についてみるに、過去の戦争の是非はいかんであれ、その戦争で国に殉じた者の遺家族らに対し、国、公共団体が経済的、精神的援護をなしその福祉を図る必要性があることはいうまでもないところ、番号1から13の各碑は、その碑の所在する地域出身の戦傷病者・戦没者らを追悼・顕彰するため建立された記念碑であって、これを清掃し、慰霊祭を行っている団体に清掃、供花、供物代等の経費として補助金を交付することにより、その維持管理の徹底を図ること(前記市補助金交付要綱第一条)は、多くの遺家族の精神的慰藉となる。併せて、多くの碑が公園ないし地域住民にとって公園に準ずる広場としての役割をも果たしている神社仏閣の境内地に所在することから、これらの碑を良好な状態に清掃することは原爆被爆地長崎の国際的文化観光都市として美観維持にも寄与しうるのであり、本件補助金の支出額、具体的な使途及びその支出の対象碑が忠魂碑として総称されるものばかりではなく、等しく所定の交付基準に適合する原爆関係殉難者の慰霊碑にも支出されている事実に鑑みれば、本件補助金支出に公益上の必要性がないとはいえない。
原告らは、本件補助金の支出は、国民主権主義、平和主義、基本的人権主義、法の下の平等主義、政教分離、信教の自由の憲法理念に反し必要性のないものであるとるる主張するが、その主張は採用できない。
七 長崎市の損害
本件補助金のうち、番号14の碑に対する本件補助金の支出は、前記認定判断のとおり、違法な公金の支出であるから、長崎市は、番号14の碑に対する金四万円の本件補助金の支出によって金四万円の損害を被ったことになる。
被告は、本件補助金の半額は長崎県が県補助金交付要綱に基づいて市に交付した補助金であり、この部分については長崎市の財政的負担はなく市の損害は生じていないと主張するが、前記二2(長崎市が本件補助金を支出するに至った経緯)で認定したとおり、市が県から交付を受けた補助金は市が維持管理が必要と認めた慰霊碑等に必要に応じて配分して差し支えないものとされ、現に、市が定めた市補助金交付要綱によって、補助額を各碑に按分しているものであることからすると、県の補助金は一旦長崎市の財政収入となった後、市の財政予算から本件補助金が支出されるものであるというべく、被告の主張は理由がない。
八 違法支出についての被告の責任
被告は、長崎市の市長としてその職務権限に基づき本件補助金の支出をなしたこと自体は明らかに争わないところ、成立に争いのない甲第五六号証の二、三、第八一号証の一ないし五、第八二号証の一、二及び弁論の全趣旨によれば、被告は、昭和五六年度の本件補助金の支出前において、忠魂碑と総称される碑の維持管理費の支出が、市の担当部局や昭和五六年三月四日から同月二六日までの長崎市議会第二回定例会において、政教分離原則との関係で憲法違反の簾がないかどうか検討及び質疑がなされた経過事実があることからして、本件補助金の支出に当たっては、当然支出の対象となる碑及びその碑の維持管理団体につき調査、検討して支出の決裁をなすべき職務上の義務があったのに、忠魂碑と総称される番号1から14の中でも、番号14の碑は、碑の所在地が元招魂社で碑名も他とは趣を異にし、幕末かも明治初めの官軍戦没者の墓石を一体として神社神道の儀式に則り慰霊祭が行われており、一義的に記念碑であると認め難い状況にあることを知っていたか、少なくとも知りうべき状況にあったにもかかわらず、墓地としての清掃管理だけにとどめるための費用支出とするなどの特段の措置もとらずに本件補助金を支出しているものであるから、被告には少なくとも過失により、番号14の碑に対して本件補助金の支出をなしたことにつき、長崎市に対し損害の賠償責任がある。被告は、本件補助金の支出については、手続的には長崎県等関係先とも協議のうえ予算として長崎市議会の議決を得て行ったものであるから、被告には帰貴事由はない旨主張するが、そのような経緯による本件補助金の支出であっても、被告がその職務権限により支出した以上、その責任は免れない。
九 結論
以上によれば、原告の本訴請求は、長崎市に代位して、被告に対し、番号14の碑に対する本件補助金の支出金四万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日であることが記録上明らかな昭和五七年八月一七日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を長崎市に支払うことを求める限度で理由があるから、右限度でこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用及び参加費用の負担については、行政事件訴訟法七条、民訴法九二条本文、八九条、九四条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 松島茂敏 大段 亨 田口直樹)
〔原告ら主張の違憲、違法理由〕
第一 本件一四碑について
本件一四碑の設立時期、設立者、慰霊対象、施設の状況、挙行されている慰霊祭の状況及び補助金の使途は以下のとおりである(番号は別紙一忠魂碑等一覧表の番号である。)。
一 番号1天主公園 「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
大正六年(一九一七年)ころ、在郷軍人会が浦上天主堂内入口付近に建立。原爆で倒壊、野ざらしにされていたものを、昭和四四年に浦上地区忠魂碑保存会(軍人遺族、原爆遺族、旧在郷軍人会などで構成)が、天主公園内に復元した。
当初は、浦上地区出身の日清、日露戦争戦没者を慰霊する碑として建立された。
再建後は、同地区出身者で第二次世界大戦戦死者、原爆による死亡者(学徒動員、挺身隊の死者を含め)も合わせて慰霊する碑とした。
2 施設
市有地である天主公園の一画約六坪を無償で借受け、約二メートルの高さの台座の上に、約二メートルの石碑が乗せられている。石柱に鉄製鎖を周囲に張って垣根とし、台座には再建の趣旨が刻まれている。
3 祭礼の内容
大正六年(一九一七年)ころ、本碑前において祭礼が行われていた。再建後、本碑前において、偶数年(二年に一回)、神式又はキリスト教カトリック式で、一〇月中旬から一一月中旬ころ、慰霊祭又はミサがとり行われている。
神式の場合、護国神社から神官二名を招き、神式伝統の方式(君が代斉唱、修祓、降神献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、昇神、一同拝礼)に従って行われる。
カトリック式の場合、浦上天主堂から神父を招き、その伝統的方式(聖歌、祈願、第一朗読、聖歌、第二朗読、主の祈り、撒水、祈願、献花)に従って、鎮魂の儀式が行われる。
祭礼参加者は、浦上地区遺族会、県郷友会、県軍恩連盟、市遺族会、憲友会、県銃剣道連盟、市長、市会議員などである。
4 補助金の使途
碑の周囲の植木の植えかえ代(約二万円)、毎年八月九日の原爆記念日と年二回供える花代一一万二〇〇〇円一、供物代(二万五〇〇〇円)などの一部に当てられた。
二 番号2式見小学校 「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
昭和一二年(一九三七年)、現在の場所に建立。建立者は式見村と思われる。
日清戦争以後の式見地区戦没者の慰霊、顕彰のため設立。従って日露戦争、第二次世界大戦の戦死者も慰霊対象に含まれていると解される。
2 施設
式見小学校の旧校舎と新校舎の間の小高い丘の市有地(長崎市<地名略>・宅地)に存し、高さ五・三五メートル、台座面積は一一・三五平方メートルのコンクリート製。前面に両開きの扉があり、中は木張りの部屋となっている。
周囲には桧の植木が数本植えられ、すぐ横に国旗掲揚ポールが立てられている。
第二次世界大戦後の一時期、撤去を免れるため、「忠魂碑」という銘板の代わりに「憲法発布記念塔」という銘板をはめたことがある。
3 祭礼の内容
昭和一二年(一九三七年)から終戦ころにかけては、小学校児童への軍国主義教育のための手段として朝夕礼拝の対象とされていた。
憲法発布記念塔の銘板を外し、忠魂碑に戻してからは、式見遺族会が中心となり、自治会の協力を得て、毎年一〇月、碑の清掃、供花、供物を供え礼拝した後、これらの供花、供物を持参して、一同地元の寺に赴き、「戦没者の霊」と書かれた紙を前に置き、同寺僧侶の読経の後焼香して戦没者の霊を慰める儀式を行っている。
八 月一五日にも碑前で供花、供物を供え礼拝する。
4 補助金の使途
昭和五六年度は、清掃のため年二回の参加者弁当代、飲物代、車借り上げ料として三万二〇〇〇円、修理費(扉の錆止めなど)八九〇〇円、供花、供物代九七七〇円などの一部に使用された。
5 その他
本碑の敷地は、もとWの所有であって、昭和五九年一二月六日長崎市に所有権が移転されているが、それ以前から宗教施設として固定資産税が免除されている。
三 番号3深堀神社 「招魂廟」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
明治三年(一八七〇年)ころ、現在の場所に建立されたが、建立者は不明である。
当初、明治維新時代の戊辰戦争で戦死した深堀藩士六名を祭ったものであるが、建立後、日清、日露戦争の戦没者も加えて祭り、更に第二次世界大戦戦死者も加え、合計二三〇名を合祀している。
2 施設
深堀神社の境内に存し、台座が四メートル四方くらい、高さが約二メートルの、かなり古い石造りのもので、正面に石製扉が設けてある。周囲は多数の石柱による垣根がめぐらせてあり、ツツジの木が正面に一対植えられている。周囲は静寂で神聖な雰囲気をかもし出している。
3 祭礼の内容
深堀遺族会が中心になり、これに各町内から二、三名の役員をつのって招魂廟泰賛会をつくり、同会名で、毎年一〇月一七日(深堀神社のお宮日)、英霊の顕彰、慰霊の行事を実施している。
深堀神社の神官に出席を願い、神式伝統の方式(間扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、閉扉など)に従って行われる。
出席は、遺族会を中心に、他に自治会、婦人会、市深堀支所長などである。
4 補助金の使途
年一回の祭礼費。昭和五六年度は、祭礼の際の供物三万八一六八円、遺族一家族に配付する品物代五万四〇〇〇円(一家族に三〇〇円相当品)の一部に使用された。
四 番号4裳着神社 「殉国慰霊塔」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
この碑は、戦後昭和三三年一〇月に茂木町により建立された。建立計画は戦前からあり、観音堂の上の位置に土地を確保して建立が予定されていたが、敗戦により中止され、戦後の世相の右化傾向と忠魂碑再興ブームにのり、公費で町が建立した。
本碑には、<地名略>出身の第二次世界大戦戦死者六〇三名が祭られている。
碑の所有者、管理者は、茂木遺族会である。
2 施設
本碑は、裳着神社社殿横の境内を借りて建てられている。同所は日当たり良好な場所である。同境内には、本碑のほかに「明治三七、八年戦役外征軍人名碑」という碑が存在する。
本碑の台座は一辺約三メートルの正方形で、碑の高さ約四メートルの石碑である。まわりには杉、そてつの植木があり、常に清掃が行き届いている。
3 祭札の内容
祭礼は茂木遺族会の手で八月一五日、九月二三日の年二回行われる。八月一五日は、神官を碑前に呼び、供花、供物を供えたうえ、祝詞奏上、玉串奉奠なと神道儀式を約一時間にわたって行い、正午のサイレンと同時に列席者が黙祷を行う。九月二三日は、昭和三七年から二、三年間は碑前で祭礼を行っていたが、雨天もあったことから、それ以後は市の公民館を借りて祭礼を実施している。祭礼には、僧侶一名、神官三名が招かれ、寺から「殉国英霊」と書かれた位牌のような札が持ち込まれる。出席者は、茂木遺族会会員のほか、市長、市茂木支所長が参列する。式次第は、開会の辞、修祓、降神、祝詞奏上、表白文、浦安の舞、祭主祭文、市長挨拶、玉串奉奠、焼香で終わる。
4 補助金の使途
補助金は、茂木遺族会が本碑のために行う供花、供物代、清掃謝礼代の合計金六万六三〇〇円の一部に充当されている。
5 その他
茂木遺族会の会費徴収、会計管理は、長崎市の職員(茂木支所職員)が行っている。
五 番号5大山祇神社境内 「殉国忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
明治三九年(一九〇六年)一〇月に大山祇神社内に設立された。大正時代中頃、神社移転とともに土井首小学校校庭に移転された。紀元二六〇〇年(昭和一五年(一九四〇年))を期して、右神社が新築された際、本碑が神社の現在の場所に戻された。
本碑には、土井首地区の西南の役以降の戦死者が祭られていたが、後に第二次世界大戦戦死者を合祀している。
2 施設
本碑は、大山祇神社境内にあり、台座と碑を合わせて約四メートルの高さがある石碑である。碑は一辺約一〇メートルの正方形の敷地の中にあり、まわりはブロック塀で囲まれている。
碑のまわりは清掃され、神聖さが保たれている。
3 祭礼の内容
昭和五七年までは、本碑を管理する土井首地区連合遺族会が独自に行うものと、土井首地区連合自治会が中心となり、右遺族会と共に行うものとがあったが、昭和五八年からは連合自治会が祭礼を行わなくなり、その後は、遺族会の祭礼のみが行われている。
遺族会独自の祭礼は、本碑の前で毎年八月一五日に行われる。碑前に遺族会旗と半旗を掲げて集まり、供花、神酒、その他の供物、線香を供え、会長の挨拶、慰霊の言葉が述べられ、市長代理として市土井首支所長が献花し、言葉を述べ、全員で参拝する。そして、正午にラジオに合わせて黙祷する。
連合自治会は、遺族会と一緒に唯念寺に遺族を呼び、僧侶により仏式の祭礼を実施していた。
4 補助金の使途
毎月一日、一五日に清掃、供花を行い、年一回八月一五日に供物を供えるので、これらに補助金を使用し、供花代金一万二〇〇〇円、供物代一万二〇〇〇円、清掃代二万四〇〇〇円の一部に充当された。
六 番号6福田天満神社境内 「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
<地名略>在郷軍人会により大正一〇年(一九二一年)二月頃、福田海水浴場付近に建立された。終戦後も撤去されることなくそのまま存続したが、昭和三一年に台風で倒れ、昭和四一年に現在の福田天満神社境内に移転再建した。
日清日露戦争戦死者を対象とし、戦後第二次世界大戦戦死者を合祀し、合わせて約二八〇名が祭られている。
2 施設
碑の高さは約二メートルで、碑には「忠魂碑、大正一〇年二月一一日」と刻まれている。本碑のすぐ横には「忠魂記念碑」という碑があり、右二碑の間にほこらが存し、このほこらに「霊璽簿」が納められている。
忠魂碑の左横には、兵士四名の墓碑四基がある。周囲は天満宮社殿、植木等があり、昼一間でも茂る木々でやや暗く、静かで神聖さが保たれている。
3 祭礼の内容
碑は福田地区連合自治会が管理し、毎年三月二五日に福田遺族会と自治会において、碑前で、福田天満宮の神官を招き、神式の式次第(修祓、開扉、招神、献饌、祭詞奏上、玉串奉奠、撤饌、閉扉)にのつとり慰霊祭が行われている。
出席者は、戦死者遺族、自治会、民生委員などで、毎年約二〇〇名位が参列する。
4 補助金の使途
補助金は、供花代七〇〇〇円、供物代三万一〇〇〇円、清掃代五〇〇〇円の一部に充当されている。
七 番号7古賀八幡神社 「殉国慰霊塔」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
古賀八幡神社境内には「大正三、四年戦役記念碑」という石碑が存していたが、昭和三〇年ころ、古賀村殉国慰霊塔建設協賛会が設立され、同年二月に本碑を建立した。本碑には、日露戦争から第二次世界大戦戦死者一七〇名を合祀している。
2 施設
古賀の八幡神社境内にあり、高さ約七メートル、自然石を用い、周囲にはつげ、さつき、まきなどの植木が植えられ、常に手入れが行き届いている。市内に数多く存する碑の中でも、最も雄大で規模が大きく、神聖さが存する。
古賀地区遺族会が管理所有している。
3 祭札の内容
古賀地区遺族会が毎年四月下旬、慰霊祭を行っている。
福瑞寺から住職、伴僧両名を呼び、まず碑前で仏式により行う。式次第は一同礼拝、読経、会長慰霊の辞、焼香、礼拝である。供花、供物が供えられている。碑前での式が終わると、福瑞寺に場を移し、着席、開会の辞、読経、焼香、閉会の辞という儀式を重ねて行う。
また八月一五日には碑前に僧を呼び、右と同様の方法で読経、焼香などを行い、サイレンに合わせて正午から一分間黙祷する。
参加者は、遺族、在郷軍人、傷痍軍人、自治会、市矢上支所長らである。
4 補助金の使途
供花代二万四〇〇〇円、供物代一万四〇〇〇円、清掃代一万二〇〇〇円の一部に充当されている。
八 番号8矢上神社 「殉国慰霊塔」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
昭和九年(一九三四年)に当時の<地名略>在郷軍人会によって現在の東長崎中学校校庭に建てられた。戦後もそのままであったが、その後校庭が狭くなったという理由から、昭和三三年に現在の矢上神社境内に移転された。
本碑には、日清日露戦争における<地名略>出身戦死者が祭られていたが、第二次世界大戦後にその戦死者も合祓された。合計二七二名である。
2 施設
矢上神社の境内の一角にあり、台座は一辺約一〇メートルの正方形で、台座のまわりに石柱の垣根があり、正面には大砲の弾丸を模した石柱がある。周囲はうつそうと繁った森である。台座に戦死者名が刻まれている。
設立当初の碑名は「忠魂碑」であったが、昭和三三年の移転の際「殉国慰霊塔」と改められた。本碑の所有者は不明であるが、管理者は矢上遺族会である。
3 祭礼の内容
毎年一回四月か五月の日曜日に、矢上遺族会が碑前で慰霊祭を行う。慰霊祭は、矢上神社の神官が出席し、神式の式次第にのつとり行われる。式次第は、全員黙祷、君が代斉唱、献花、修祓、降神、祝詞奏上、祭文、慰霊の言葉、玉串奉奠、撤饌、昇神、閉会である。なお、その後、奉納銃剣道が披露される。長崎市東長崎支所長が公人として慰霊祭に出席している。
4 補助金の使途
清掃と供花が毎月一日に行われ、供物が慰霊祭の時に供えられるが、補助金四万円は、供花代一万二〇〇〇円、供物代一万六四〇〇円、清掃代二万五二〇〇円の一部に充当された。
5 その他
矢上遺族会の会計は、市東長崎支所職員が帳簿の記帳を手伝っている。
九 番号9戸石神社 「殉国慰霊塔」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
<地名略>在郷軍人会有志が、日露戦争での戟死者三名が祭られた碑を戸石神社に建立した。昭和三一年一〇月に戸石地区民が碑を新しく建て直し、戦死者芳名銘板に新たに第二次世界大戦戦死者多数と原爆死者一四名を加え、合わせて一七五名が合祓されている。
2 施設
戸石神社内には、「明治二七年従軍記念会之碑」、「日露戦役従軍記念碑」、「大正三、四年従軍祈願記念」という三つの軍人関係の碑があり、それとは離れて、社殿の近くに本碑が立っている。まわりは常に清掃されていて神聖な碑との感を深めている。高さは約四メートルである。所有者は戸石地区民、管理は戸石地区連合自治会である。
3 祭礼の内容
戸石地区連合自治会が毎年四月又は五月に本碑の前で神式で慰霊祭を実施している。出席者は、日露戦争戦死者の孫、曾孫、第二次世界大戦戦死者遺族を中心に、自治会員、来賓など合わせて約二〇〇名くらいである。
神官を呼び、神式の方法で行われる。
4 補助金の使途
毎月二回行う供花代金一万二〇〇〇円、慰霊祭の時の供物代三万九七四五円の一部に充当された。
一〇 番号10小ケ倉神社 「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
<地名略>在郷軍人会により、大正四年(一九一五年)に建立された。本碑には、日露戦争戦死者(二名)、第二次世界大戦戦死者(六九名)、学徒報国隊員(六名)、その他、合計七九名が合紀されている。
2 施設
小ケ倉神社内に存し、高さ約二メートルの自然石に「忠魂碑」「小ケ倉村在郷軍人分会」と刻まれている。その右手に芳名が示された銘板がある。碑の所有者は明確ではないが、管理は小ケ倉地区遺族会が行っている。
3 祭礼の内容
昭和五七年までは、神式又は仏式にて、碑前で慰霊祭を行っていたが、昭和五八年以降は、小ケ倉遺族会会長が多忙のため、祭礼が実施されていない。
毎月一日、一五日に清掃、供花を行い、個々の遺族会会員が礼拝する。
4 補助金の使途
供花代金二万四〇〇〇円、清掃謝礼代金三万六〇〇〇円の一部に充当された。
一一 番号11養国寺 「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
昭和七年(一九三二年)ころ、日見小学校校庭に<地名略>在郷軍人会によって建てられた。碑は終戦のころ、はずされ、持ち去られていたが、日見小学校が改築された昭和二六年に、養国寺境内に再建された。本碑には、日見村出身の明治以降第二次世界大戦までの戦死者一一八名、原爆被災者一四名、合計一三二名が合紀されている。
2 施設
養国寺境内の墓と並んで本碑がある。石碑背面には戦死者名が多数刻まれている。台座の中には、戦死者全員の戒名が納められている。本碑は、日見遺族会の所有で、同会が管理している。
3 祭礼の内容
日見遺族会によって、春、秋の各彼岸の中日に、碑前で仏式による供養が行われている。養国寺の住職、伴僧と二名にて、読経、焼香、礼拝、ろうそく、供物、供花を供え、御詠歌が詠ぜられる。戦死者遺族、日見養国寺詠唱会、有志の約五〇、六〇名くらいが参加する。
4 補助金の使途
供花、供物代金三万二〇〇〇円、清掃代金五〇〇〇円、線香、ろうそく代金三〇〇〇円に使用された。
一二 番号12三重皇大神宮神社 「慰霊之碑」「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
「忠魂碑」は、昭和三年(一九二八年)一一月ころ、旧三重村が建立した。慰霊の対象は、明治二七年、二八年戦役(一八九四、五年、日清戦争)、大正三年戦役(一九一四年、第一次世界大戦)、第二次世界大戦の各戦死者である。「忠魂碑」の現在の所有者は長崎市であり、管理者は三重遺族会である。「慰霊之碑」は、昭和四二年二月に三重遺族会が建立したもので、慰霊の対象は、右忠魂碑と同じである。
2 施設
忠魂碑は、台座を合わせると高さ約五・三メートルで、自然石が用いられている。忠魂碑と慰霊の碑との間に、霊璽簿としての戦死者名を刻んだ碑がある。この三つの碑を囲む垣根がある。
3 祭礼の内容
三 重遺族会が中心となり、県軍恩連盟三重支部、傷痍軍人会三重支部、三重地区自治会などが参加して三重地区殉国慰霊奉賛会をつくっているが、三重地区遺族会、右奉賛会が、年一回、毎年一一月に、忠魂碑及び慰霊之碑の前で戦死者の慰霊祭を行っている。慰霊祭には神官を呼び、三重遺族会、奉賛会の各会員ら一四〇名くらいが出席し、市社会課長、市三重支所長が公人として列席する。
式次第は神式で、君が代斉唱、国旗掲揚、修祓、招魂の儀、献撰、一拝、祝詞奏上、「国の鎮」の奏楽、追悼の言葉、慰霊電報披露、玉串奉奠、昇魂、撤饌、閉会である。
4 補助金の使途
碑への供花、供物、清掃謝礼、年間管理費等として使用する金四万五五〇〇円の一部として充当された。
一三 番号13長崎公園 「忠魂碑」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
長崎奉公会が昭和五年(一九三〇年)に、金八〇〇〇円の費用を投じて、現在の場所に建立した。終戦時、政府の命により忠魂碑の上部が撤去され、埋められていた。これを昭和四三年二月、長崎市忠魂碑復元委員会が再建した。本碑は、長崎市出身の戊辰の役以来の戦死者約一万七〇〇名を慰霊対象としている。
2 施設
碑は、砲弾をかたどっている。高さは約一〇メートルあり、港を見下ろす公園の正面に位置する。所有者は長崎市であり、日本郷友連盟長崎県支部(通称「長崎県郷友会」ともいう。)が管理している。「忠魂碑」の文字は、元帥海軍大将Tの書による。
3 祭礼の内容
慰霊祭が、県郷友会の主催により、毎年五月二三日に碑前で諏訪神社神官列席のうえ行われる。
4 補助金の使途
慰霊祭時の供花代金二万円、供物代金二万四九〇〇円の一部として使用された。
一四 番号14 「佐古梅ケ崎招魂社、坂本墳墓」
1 設立時期、設立者、慰霊対象
佐古招魂社が明治元年(一八六八年)に、梅ケ崎招魂社が明治七年(一八七四年)に別の場所に建てられた。佐古招魂社は、当初楠木正成と名和長年の霊を祭る碑として建立されたが、後に西南の役の戦死者を明治一〇年(一八七七年)ころ合紀した。梅ケ崎招魂社は、戊辰戦争の戦死者を祭ったが、「台湾征伐戦争」の時の死者も加えた。その後悔ケ崎招魂社が佐古招魂社の場所へ移転した。ところが、昭和一七年(一九四二年)に、佐古、梅ケ崎の両招魂社が護国神社に合併され、佐古の地には、「軍人軍属合葬之碑」、「振遠隊戦士遺髪碑」、「征台車人墓碑」の他多数の墓石が残った。このうち、「軍人軍属合葬之碑」、「振遠隊戦士遺髪碑」について県郷友会が補助金を受けている。これらの碑に刻まれた軍人の数は、奥羽鎮圧の戦死者一三名、病死者四名、函館戦役戦死者二六名、西南の役戦死者六七一名、台湾の役戦死者九名、病死者三七二名、満州上海事変戦死者一二五名、護国神社との合祀者一二四二名、合計二六四二名である。
坂本墳墓の設立時期は明確ではないが、明治年間に陸軍長崎重砲大隊の戦死者、病死者一一名を埋葬した墳墓である。
2 施設
佐古梅ケ崎招魂社は、市内最大規模の墳墓である。もともと、佐古墳墓、梅ケ崎墳墓といわれていたものを佐古に集めたもので、周囲はすべて墓石である。
墳墓の中心に「軍人軍属合葬之碑」、「振遠隊戦士遺髪碑」がある。この碑の所有者は長崎市で、管理者は県郷友会である。
坂本墳墓は国有地内にある。
3 祭礼の内容
県郷友会が中心になって、佐古梅ケ崎、坂本墳墓保存会が組織されているが、この保存会が、毎年春分の日に護国神社の神官二名をまねき、神式により慰霊祭が行われる。式次第は神式である。坂本墳墓には佐古招魂社慰霊祭と同じ日に佐古の供花、供物をとり払い、これを持参して、郷友会有志がお参りをする。
4 補助金の使途
慰霊祭の時の供花代金四七八〇円、供物代金五万九五二〇円、年二回の清掃代金一万六七〇〇円の一部に使用された。
第二 忠魂碑の宗教施設性
一 国家神道の歴史
1 国家神道以前の御霊信仰
日本の原始社会では、人々の死者には「霊」があると考え、その霊を恐れてこれを鎮めるという思想があった。これを御霊信仰という。平安時代に、御霊信仰が広まり、天災地変、流行病などで恨みをのんで死んだ霊や、戦いなどで非業の最後を遂げた霊や、菟罪で死んだ霊などは、たたりがあるものと恐れられ、これを手厚く祭って鎮めるという考えが民衆に広まった。特に戦場で戦死した場合は、敵味方を問わず厚く葬い供養した。朝鮮の役では、日本と朝鮮、中国の戦死者を共に供養する碑がつくられた。このような思想は、たたりを恐れるという原始的な観念と、仏教の怨親平等の思想(慈悲の心で共に平等視する考え)から生まれたものと考えられている。
2 右思想は、幕末頃から変化し、敵側死者を無視し、天皇側死者を英霊視するようになった。
幕末維新には天皇軍と東北会津若松との戦いなどで天皇軍に多くの戦死者がでた。それら天皇軍戦死者の霊を慰め、その戦闘の業績を顕彰し、また戦死者の多くは子孫のない若者であったので、後世において無縁になる事のないようにこれを祭るなどの目的で戦死者の地元に忠魂碑と招魂碑が建立されるようになった。招魂とは天に在る死者の霊を招き降ろして鎮祭する事であり、忠魂とは天皇、皇国に忠義を尽くして死亡した人の霊の意である。
3 東京招魂社(後の靖国神社)の設立
明治天皇は明治二年(一八六九年)に東京招魂社を設立した。場所は東京九段坂上の広大な旧幕府歩兵調練場跡である。ここで大々的な招魂祭がとり行われ、明治七年(一八七四年)に初めて明治天皇が東京招魂社に参拝した。
その後天皇の参拝が行われるようになった。
政府が招魂祭を行ったことにならって、全国各地で招魂場(社)が建設され始めた。明治の末期になると退役軍人の組織体である在郷軍人会の各分会が中心となって市町村単位で市町村有地や神社境内に忠魂碑が建てられた。
4 靖国神社への改称
招魂という言葉は、天に在る戦死者の霊を「一時的」に天から招き降ろして祭ることであり、招魂社はその一時的招斎の場所という響がある。しかし、天皇のため、国のために殉じた霊は英霊であり祭神として永久に鎮祭されるべきであり、そうだとすれば、永久の祭神に対し、一時的招斎場の意味を持つ「東京招魂社」の名称は妥当でなく、神社とすべきであり、また、東京招魂社は、日本陸軍、海軍の唯一の宗教施設であるから、他の各県の招魂社と区別する意味からも、格調高き名称にすべきであるという事になり、東京招魂社は、明治一二年(一八七九年)に「靖国神社」と改称された。靖国とは、古代中国の史書「春秋」から来た言葉で、鎖国、護国と同義語である。招魂と呼ぶ間は死者個人の霊という個性が強かったが、靖国と名称が変わった事により、死者の霊は英霊という抽象的な靖国の神となり、「国」が前面に押し出されて来た事となる。靖国神社は、呼称の改正と共に、別格官弊社に昇格した。
別格官弊社は、個人の神霊を主祭神とすることから、靖国神社では、国事殉難者、戦没者個人をすべて主祭神とし、しかも合祓のたびに祭神が増え続けるということになった。そこで同神社の神体(霊璽)は神鏡と神剣とし、副霊璽を定める事とした。即ち死者の名簿に宗教的意味を持たせ、これを霊璽簿と呼びこれを副霊璽としたのである。天皇のため、国のために殉じた霊は英霊であり祭神として永久に鎮祭されることになったのである。
明治二〇年(一八八七年)には陸海軍省の管轄となり、陸軍省総務局が靖国神社を治める事となった。
5 国家神道の発展
靖国神社は、日清日露の対外戦争を経て大発展し、さらに、全国各地方の招魂社は内務省の管轄であったが、日露戦争後、内務省神社局長が祭神を靖国神社合祓者に限ることとし、靖国神社の地方分社化を進めた。さらに、昭和一四年(一九三九年)には招魂社が護国神社と改称された。また、日露戦争の時期から、全国の市町村で郷土の戦没者を祭る忠魂碑がさか人に建てられるようになり、忠魂碑の建設と管理は、明治四三年(一九一〇年)から帝国在郷軍人会の手に移され、忠魂碑への参拝と碑前の招魂祭が行われるようになった。日中戦争下では、陸軍の主導で、外地の戦跡と国内の一市町村に一基の忠霊塔建設運動が展開された。
こうして、国の靖国神社、府県の護国神社、市町村の忠魂碑という、英霊顕彰と国民教化の形態ができ、天皇崇拝と軍国主義の普及に威力を発揮した。日本軍人は皇国のため天皇のために忠義を尽くして死亡した場合は別格官弊社としての靖国神社に神として祭られ、大祭ごとに天皇から参拝を受け、このことは最大の名誉とされたのである。
6 国家神道と他教の弾圧
幕府は幕末に至ってもなおキリスト教を弾圧した。明治政府も神道国教化、祭政一致の政策をとり、神道を保護し、キリスト教を禁止し、仏教への打撃政策を続けた。新政府は明治元年(一八六八年)、長崎の浦上村のキリシタン農民三一〇九名を検挙し、これらを津和野藩など各地に流刑にし、各所で拷問を加え、強制労働に服させ、食を十分に与えなかったりした。外国の強い抗議に会い、明治六年(一八七三年)にキリスト教が解禁された時、津和野などから釈放されて浦上の里に帰村した者の数は一九八一名であった。その間、実に六六〇名が拷問等で死亡したのである。神道に従う者は忠魂碑で英霊となり、キリスト教を信じる者は拷問されたのである。
政府は、その後も、国家神道の教義を大前提として、教派神道、仏教、キリスト教を公認し、国家神道の枠内での宗教の自由を容認したにすぎない。
さらに、昭和一〇年(一九三五年)代以降、政府は、国民を戦争に動員するために、思想、宗教への統制を厳しくした。宗教界の大勢は、国策にすすんで奉仕したが、宗教統制の枠からはみ出した新宗教等は、大本教、ひとのみち、ほんみち、創価教育学会などに代表される激しい宗教弾圧を受けた。
これらの宗教弾圧は、近代天皇制国家としての本質に根ざした行為であった。
7 戦後の靖国神社
靖国神社は、敗戦による神道と国家との分離によって、東京都の単立宗教法人となった。しかし、靖国神社の宗教法人靖国神社規則(昭和二七年)には、「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた。「安国」の聖旨に基き、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祓を行い、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための事業を行ふことを目的とする。」と掲げられており、ここには、靖国神社の創建の趣旨と伝統、すなわちその基本的性格が承継されていることが示されている。
戦前の靖国神社が、国による戦没者の慰霊、追悼の機能をも果たしていたことは事実であるが、それは派生的な役割であって、何よりもまず、天皇のために死んだ戦没者を神として祭り顕彰する神道施設であった。靖国神社は現在もこの基本的性格を保持しているのである。
二 忠魂碑の歴史、意義
1 忠魂碑を歴史的に分類すると以下のとおりとなる。
(一) 第一期 明治一〇年(一八七七年)から昭和一四年(一九三九年)ころまで
忠魂碑は、最初は西南の役(明治一〇年、一八七七年)後、官軍の戦没者のために作られたものとされている。とくに、日清戦争(明治二七年、一八九四年)、日露戦争(明治三七年、一九〇四年)後に建立が盛んになった。
「招魂社」は、都道府県単位で一社作られたのに対して、忠魂碑は町村単位で更に広く作られた。名称は、「忠魂碑」の他に「招魂碑」、「記念碑」、「忠霊塔」、「殉国慰霊塔」などいろいろであったが、その名称の相違は、主に建立の時代の差異により、「記念碑」は主として日露戦争まで、「招魂碑」は日清戦争後まで、「忠魂碑」はそれ以後昭和一四年(一九三九年)ころまで、「忠霊塔」は主として昭和一四年(一九三九年)後数年間に建てられたもので、その性格は変わらない。
(二) 第二期 昭和一四年(一九三九年)から昭和二〇年(一九四五年)まで
この時期には、忠魂碑といわず、主として忠霊塔という名称で、軍の指導(陸軍副官通牒)で建設運動がすすめられた。昭和一二年(一九三七年)には国家総動員法が施行され、国民を侵略戦争に動員するための経済的、政治的、思想的政策がとられ、同年日中戦争が始まった。かような状況の中で、忠霊塔建設運動が軍人の手で国家要請として始められた。昭和一四年(一九三九年)に、大日本忠霊顕彰会によって、忠霊塔は、内地では市町村に一基、外地では戦跡に建てる運動が始められた。陸軍副官通牒では「永遠に護国英霊の営域(墓地)として尊崇の中心たらしむること」と通達され、忠霊塔は墓地としてあがめ祭るように指令された。軍は「すでに忠魂碑がある場合には、そこに遺骨等を納めて忠霊塔とすればよい」という指導も行っている。
そして、忠魂碑や忠霊塔は、神社や公共用地、小学校敷地などに建てられ、宗教施設として礼拝を強制すると共に、戦場へ駆り立てる教育に利用された。
(三) 第三期 昭和二〇年から昭和二七年まで
占領軍の命令により、多数の忠魂碑、忠霊塔が撤去された。命令は「学校及びその構内に存するもの、公共建造物及びその構内、又は公共用地に存するもので明白に軍国主義的、極端なる国家主義的思想宣伝鼓吹を目的とするもの」は撤去せよというものであった(昭和二一年一一月二七日警視総監地方長官宛、内務省警保局長発「忠霊塔忠魂碑等の措置について」)。このようなことから、ほとんどの忠霊塔、忠魂碑類が撤去されたり埋められたりした。
(四) 第四期 昭和二七年以降
昭和二四年ころには、中国での共産革命や朝鮮動乱が起こり、アメリカ合衆国、ソビエト連邦共和国の深刻な対立が始まった。国連軍の日本占領が終わり、独立が始まると共に、靖国神社を再び国家護持せよとの動き、紀元節の復活、伊勢神宮と皇室とのつながり復活が要求されるようになった。多くの戦友会が全国的に結成され始めた。そして、一旦破壊された忠魂碑は、全国的に軍人遺族会、郷友会なと旧軍関係の団体によって再建され始めた。
2 戦前の忠魂碑
昭和も一〇年(一九三五年)代には、日中戦争が拡大し、戦死者も増加した。忠魂碑、招魂碑の前には軍将校、遺族のほか生徒が集められ、毎年神式又は仏式で招魂祭が盛んに実行された。これら祭礼は結局生徒に対し、皇国史観を植えつけ、戦意を高めさせ、神道を教育する場となった。昭和一三年(一九三八年)、内務省は招魂社、忠魂碑等の建設について通達を行った。「個々に建てる事をせず、なるべく市町村単位で建てること。忠魂を千古に顕彰するに過誤なき様」というものである。昭和一四年(一九三九年)、各地にある招魂社を「護国神社」と改め、国が補助金を出す事とした。同年、陸軍、海軍、神社局などが協議し、忠霊塔などの碑は一市町村に一碑とする、靖国の思想を定着させるため英霊顕彰を郷土意識と直結させる意向のもとに「単純なる忠魂碑たらしむる事なく、永遠に靖国英霊の塋域として尊崇の中心たらしむること」とした。また、「個人墓地は遺族において身分不相応なる墓碑を建設するな。
戦死者の永久の名誉顕彰は忠霊塔などによるべし」と指示した。
3 敗戦後の忠魂碑
敗戦後、忠魂碑等が建立再建されたが、単に遺族による純粋な意味での慰霊、供養、ミサの対象とするためだけの目的で、民間人によって建てられたのではなく、旧軍関係団体の手で再建され、そのうえ、福岡市筥崎宮では、日本海海戦記念祭直後、一二〇〇名が海上自衛隊護衛艦に乗って日本海を航行し、「海ゆかば」を演奏したり、和歌山県護国神社内の「ああ予科練碑」で慰霊祭を四〇〇名でとり行い、そのあと市消防音楽隊が出演し、海上自衛隊徳島基地からビーチクラフト機三機による慰霊飛行とヘリコプターによる花束投下がなされたり、本件一四碑に長崎市が公金を支出し、神官、僧侶のとり行う慰霊祭、供養に長崎市長が出席したりしている。これらの事実によると、忠魂碑は、天皇のために死亡した軍人、軍属が英霊として祭られている施設と認識されており、その碑前では神官、僧侶等の主宰する英霊、顕彰が行われている。従って、この点で、戦前と同様に宗教施設であるということができる。
4 まとめ
以上のように、忠魂碑は国家神道上の宗教施設である。ところが、戦前においては忠魂碑は国家神道上の宗教施設であったが、戦後、国家神道の解体によって、その宗教性も存在しなくなったという主張も存する。しかし、敗戦後、国家神道が廃止され、昭和二一年神社が公的性格を失い、国家神道が制度上解体し、存在しなくなったけれども、国家神道が宗教である以上、制度上の消滅によって、その系譜がすべて雲散霧消したとはいえない。国家神道の核心をなす国体の教義は、依然として熱心な信奉者たちによって承継され、神社の公的復権による国家神道の復活を要求する運動、特に靖国神社国家護持運動は極めて活発である。本件一四碑の忠魂碑も、戦没者の霊を祭っているものと観念されており、拝礼する者が多いのである。
三 宗教、宗教施設の定義
1 宗教と習俗の区別の必要性
宗教は、「人を協力に統合する機能」を有し、「死後の世界の存在を信じさせる機能一他界を供与する機能、死をおそれぬ思考機能ごを有している。これらの機能を有する宗教を政治上利用できるならば、国民を諸国策に容烏に動員することができることから、政治が宗教に密着したがる欲望が生まれる。また、戦前は明治政府以来、今次敗戦に至るまで、政府は神道という宗教と密着し、この宗教の有する人心統合の機能を充分に利用することで、国民を容易に国策に引き入れ、戦没者を英霊と呼び、英霊は合紀することで祭神になりうると説くことで、多くの国民を戦争に駆り立てた。以上のような歴史的体験から、日本国憲法は政教分離を定めたものである。しかし、政治が宗教に近づく方法の一つとして、「宗教」を「習俗」又は「一般的社会儀礼」であると言うことがある。従って、憲法上の「宗教」の定義は、政治と宗教とが癒着することによって弊害を生ずる側面を据えるよう、合目的的に解釈されなければならない。
2 宗教の定義
宗教とは「超自然的、超人間的本質(絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊など)の存在を確信し、畏敬、崇拝する心情と行為である」と定義付けられる。ところで、習俗とは、社会に古くから行われている生活上のならわし、しきたりである。従って、習俗の中には、超越的存在としての神、仏、霊、造物主などの存在を確認し、これを畏敬するという心情は含まれない。正月と門松のならわしは習俗である。温帯、亜熱帯で農牧を営も原始共同体では、熱と光の源である太陽が力を回復する冬至、新年は、生命のみなぎる希望ある祭の季節であり、緑は生命のシンボルである。そこで、常緑樹を立て、供物を供えて新年の幸福を願ったのが、門松の由来である。このように日本人の生活の中に古くから根をおろしていたものであって、無宗教的民間行事を「習俗」というべきである。
3 宗教施設の定義
宗教集団の構成を要約するならば、
イ 教義
ロ 儀式、行事
ハ 信者
ニ 施設
ということになる。宗教上の組織が宗教法人であっても、法人でなくとも、宗教集団にとって宗教施設のあることは必須の条件である。宗教施設とは、信者が集合し、その教義に基づく儀式、行事を行う場所である。
四 忠魂碑の宗教施設性
1 忠魂、招魂の意味
招魂とは天に在る死者の霊を招き降ろして鎮祭する事であり、忠魂とは天皇、皇国に忠義を尽くして死亡した人の霊の意である。
忠魂碑は、戦死者の霊を慰め(神道用語)、かつ生前の事績を顕彰する(神道用語)ために建てられたものである。そして、「忠」というのは、単に社長に対して社員が、主婦に対して女中が、飼主に対して犬が尽くす「誠実」で「まじめな」態度という意味ではない。「忠」とはあくまで君主(天皇)、国家に対して忠義を尽くして死ぬことであり、特別の意味を有している。従って、忠魂碑が示す「忠」も、「忠魂」も、あくまで「戦死者」だけが対象である。軍人にあらざる市民が空襲によって死亡しても「忠魂」とは言われない。また戦場死者であっても、敵前へ逃亡しようとして友軍から射殺された者は「忠魂」とはなり得ない。また、戊辰戦争、西南の役などで天皇軍に対抗して戦死した者は賊軍であって、「忠魂」とはよばず、従って、靖国神社にも合紀されていない。
2 国家神道の宗教施設
政府が招魂祭を行ったことにならって、全国各地で招魂場(社)が建設され始めな。明治の末期になると退役軍人の組織体である在郷軍人会の各分会が中心となって市町村単位で市町村有地や神社境内に忠魂碑が建てられた。日中戦争のころになると、靖国神社、護国神社、忠魂碑という天皇崇拝、軍国主義教化の形態ができ、国民に事実上参拝が強制された。忠魂碑は、戦後占領期には神道と国家との分離によって一時撤去されたりしたが、講和条約締結後、神社神道復興の気運に乗り靖国神社の国営化要求と期を一にして再建、建立された。このような忠魂碑は、国家神道の宗教施設である。
3 英霊信仰
日本遺族会、日本郷友連盟とその各支部、その会員は、忠魂碑には「英霊」が祭られていると考え、その霊を慰め、かつ顕彰すれば、会員たる生者もまた「英霊によって加護される」という信念又は信仰を有している。これは、一つの宗教というべきであり、忠魂碑はその宗教施設である。
この宗教を仮に「英霊信仰」又は「英霊教」と称するとすれば、
イ この信仰では死者に霊があると信じている。仏教ことに真宗では教義上霊の存在を認めないし、キリスト教には、肉体と切離した霊とか、慰霊という考えはない。霊の存在を認めるという点で神道と共通する。
ロ 生者が死者の霊を慰めるのが「慰霊」であり、慰霊という考えは先ず死者に霊があると考える者だけにできうる儀式である。霊というものがありうると信じ、かつ生者が死者の霊を慰めることができるという思想は特殊なものであるが、さらに、戦死者に霊があり、その霊が宿っていた兵士が、生存中他国に侵略し、他国民を殺害しても、日本に帰ればその兵士の霊が英霊と讃えられ、顕彰されれば霊が大いに喜び安んじられるという信仰は、極めて特異な信仰に属する。
ハ 霊は宇宙に漂い、ある時は靖国神社に、あるときは護国神社や忠魂碑に舞い降りてくることができると考えられている。
ニ 英霊は、靖国神社に合祓奉斉されることにより「祭神」となると考えられている。人間が戦死すれば神になるという考えは、「靖国神社思想」によってはじめて可能である。
ホ また、本件碑前での追悼文によれば、日本が平和で隆盛を続けているのは、また遺族が幸せに暮らせるのは、英霊の加護によるものであるという考えがあり、死者が生者を護ることができるという思想がある。
4 碑前での慰霊祭の挙行
本件一四碑の管理者は、各忠魂碑のある地区の戦死者の霊が碑前の祭壇をも含めて各忠魂碑に降神してくるものと信じて、その碑前で慰霊祭を行っている。
慰霊祭は忠魂碑の碑前で、神式、仏式などの宗教儀式の形態で、神官、僧侶等が主宰して、厳粛に行われている。この儀式は「習俗」ではなく、超自然的存在(霊、英霊、忠魂、神霊など)を確信し、畏敬の念をもって接している姿である。碑前で、宗教儀式の行われる対象は「宗教施設」である。
五 まとめ(本件一四の碑の性格)
本件一四碑の碑銘は、忠魂碑、招魂廟、殉国慰霊塔、忠魂碑、慰霊之碑等となっているが、別紙(一)忠魂碑等一覧表番号4、6、7、12の「慰霊之碑」の各碑を除いては全て明治、大正、昭和にわたり太平洋戦争までに建立されたものである。また、右の同表番号4、6、7、12の「慰霊之碑」の各碑も、昭和二六年に講和条約が調印された後、神社神道復興の気運に乗り靖国神社の国営化要求と期を一にして再建された碑である。本件一四碑は、単なる記念碑や慰霊碑ではなく、またこの碑の祭礼も単なる習俗ではない。
碑の存する場所は、一箇所小学校敷地もあるが、多くは神社、寺、墓地などの宗教的施設内にある。祭られている対象は明治以降戦死した軍人の霊である。祭礼はいずれの碑も毎年定期的に、しかも神式、仏式、カトリック式という既存の宗教の儀式に則って行われている。主宰者は僧侶、神官である。
祭礼を実施する主体は死亡軍人の遺族や、旧軍人で組織されたいわゆる遺族会、在郷軍人会の後身たる郷友会、又は自治会などである。
右祭礼は単なる習俗とはとうてい言えない。すなわち、本件一四碑は、明治以降、今終戦に至るまでの間、皇国、天皇のために忠義をつくして戦死した軍人について国家が保護する最高の神社(神道)たる靖国神社に永遠の英霊として祭られたところの神の分身を祭る碑であり、祭る目的も単なる追悼に止まらず戦争のために死した事を名誉として顕彰し、永遠に尊崇するという事であるから、結果的には戦争を是認し、肯定する碑という事になる。平和を願う碑と考えるまでには到底至っていない。戦争による犠牲者を等しく追悼するというのであれば、軍人だけを英霊とみるのではなく、従軍看護婦も、戦地病死者も、動員学徒も、空襲によって死亡した市民も共に同じ碑で追悼すべきものである。
以上のように本件一四碑は、宗教上の組織又は団体が建立又は維持管理し、英霊の存在を信じて、碑前で慰霊と顕彰という宗教儀式を行う宗教施設であるということができる。
第三 慰霊祭等の祭礼の宗教儀式性
一 本件補助金支出の要件としての慰霊祭の挙行
長崎市戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付要綱によれば、本件補助金交付の要件として、慰霊祭が挙行されていることとされており、慰霊祭の挙行が本件補助金支出の要件となっているところ、前記「第一本件一四碑について」に記載のとおり、本件一四碑は、各碑とも、前記各記載の慰霊祭を、神式、仏式、カトリック式等で行っている。
二 慰霊祭の宗教性
1 「英霊教」の宗教儀式
慰霊祭は、生者と死者の霊魂と交わり合うところであり、厳粛な宗教儀式であって、単なる習慣的世俗的な一般儀礼ではなく、また単なるショーでもない。
慰霊祭の催されるところ、そこに参集する者は、その場所に死者の霊魂が来て生者と霊との交わりをなし、生者は死者の霊を慰めその死を賛美し、死者属生者を加護することができると信じてなされる。このような信仰の上に立って慰霊祭が行われる。この信仰は、英霊を信奉する者の信仰内容にほかならず、神式、仏式等の儀式の形式を問わず、本件一四碑についての慰霊祭は、英霊を信仰する「英霊教一の宗教儀式である。
2 それぞれ特定宗教(神社神道、仏教、キリスト教)の宗教儀式
のみならず、各慰霊祭は、それぞれ神式、仏式、カトリック式という特定宗教の宗教儀式に則って行われているのであるから、それぞれが神道、仏教、キリスト教の各宗教儀式にほかならない。
第四 各管理主体の宗教団体性
一 宗教団体の定義
一般に積極的であるか、消極的であるかの差はあっても、宗教活動を行う集団を「宗教団体」という。宗教活動の場所は屋内屋外を問わず、会堂その他の場所で、礼拝のように複数の個人の参加によって集合的に行われる場合はもとより、密室での祈りのような単独の個人によって行われる場合もある。また宗教団体においては、人的組織的要素が中心になるけれども、教義や儀式、行事を欠いた宗教団体というものはあり得ないし、何等の物的施設や道具を持たないものもあり得ない。それらの要素を欠いては宗教活動が展開できないからである。
二 各遺族会
1 各遺族会と日本遺族会、県連合遺族会、市遺族会との関係
遺族会の組織は、日本遺族会、県遺族会、市遺族会、支部(地区)遺族会という一体不可分の構造をなしている。そして、英霊の慰霊、顕彰と遺族の処遇改善という日本遺族会の基本事業について、支部が独自の立場をとることは許さないとされている。かような点から、各遺族会は、日本遺族会と同じ性質を持つというべきである。
2 日本遺族会の性格
(一) 日本遺族会の目的、事業
日本遺族会の寄付行為は、その目的について「この会は、英霊の顕彰、戦没者の遺族の福祉の増進、慰藉救済の道を開くと共に、道義の昂揚、品性の涵養に努め、日本の建設に貢献することを目的とする」と規定し、この目的を達成するために次の事業を行うと定めている。
「一 英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業。
二 遺族の処遇向上に関する事業。
三 遺族の生活相談事業。
四 遺族の育成、補導。 」
日本遺族会は、その目的の第一に「英霊の顕彰」を掲げ、事業の第一として「英霊の顕彰並びに慰霊」を挙げており、英霊の顕彰、慰霊こそが日本遺族会の最も重要な目的である。この場合、「英霊」とは、天皇のための戦没者及び国事に殉じた者の霊を意味し、「英霊」の「顕彰」は、靖国神社が、国の殉難者の「みたま」を合紀し、その慰霊、顕彰の祭を行うことを目的とするものであるから、日本遺族会にとって、靖国神社の祭祓を離れてはあり得ない。日本遺族会は、靖国神社、護国神社、忠魂碑の前で、「英霊の顕彰、慰霊」という神道行事を執行しつつ、その「英霊の顕彰、慰霊」が国、県、市町村の主催で靖国神社、護国神社、忠魂碑前において行われることを目指して、靖国神社国家護持運動を強力に進めている。
(二) 靖国神社、日本遺族会の英霊顕彰、慰霊の教義
戦没者の霊は靖国神社の祭神とされ、すでに祭られている祭神と共に合祓される。この合祓の祭は、靖国神社の重要な祭祓である。靖国神社に合祓されるのは、軍人軍属、準軍属及びその他であり、たとえ戦争のゆえに亡くなった者であっても、戦災によって死亡した民間人は合紀されない。
英霊は、死者の尊称でもあるが、日本遺族会のいう英霊は、すべての死者の霊を指すわけではなく、天皇のために国事に殉じた人の霊だけを意味する。そして、英霊の顕彰、慰霊という観念には、人間が死んでも、霊が肉体から分離して存在し続けるという信仰が前提にある。それは神社神道の信仰を受け継いだものと考えられる。死者の霊は、現世を超えた超自然的な存在であって、一定の宗教的信仰をもってはじめて認め得るものである。現世の内部に存在するもの、自然界の中に客観的に認識され得るもの以外には、いかなる存在をも認めない無宗教者にとっては、死者の霊は一部の人間の単なる妄想にすぎず、諸宗教中でも、原始宗教では霊とか魂とか来世とかについて、そのような形而上的な問いに対する答えを拒否しており、キリスト教においては、死者の霊魂が死者の肉体を離れて人間の周辺を彷徨するという教義は存せず、常に霊肉一体を説き死は最後の審判の日までの霊肉一体の人間の眠りであるとする。従って、死者の霊の存在を信じる信仰は、普遍的なものでもなければ、あらゆる宗教に共通なものでもなく、特定の宗教思想であり、特定の宗教的教義である。
靖国神社、日本遺族会が考えている慰霊とは、霊を慰めることであり、この場合の霊は一般的には死者の霊であるが、靖国神社、忠魂碑にかかわるのは戦没者の霊を指す。そして、戦没者の霊を慰めることは、英霊の顕彰と別個に行われるものではなく、英霊の遺徳を顕彰することが英霊を慰めることになると考えられている。さらに、何よりも天皇が靖国神社に参拝し、英霊に対して礼拝することが戦没者の戦死に対する褒賞の念を表したことになり、慰霊の誠を尽くしたことになる。
靖国神社の例大祭、慰霊祭、護国神社、忠魂碑前の慰霊祭において表現される中心的内容は、英霊の顕彰、慰霊である。この英霊の顕彰、慰霊こそ、これらの祭祓に含まれている教義にほかならず、この教義によって、英霊は靖国神社の祭祓によって神として偶され奉仕を受け、かっての戦争における英霊の忠勇と献身が明らかにされ褒め讃えられ、感謝される。
英霊は天皇をはじめ国民の代表及び国民からこのようにされることを喜び、それによって慰められるという教義にほかならず、この教義の宗教性は明らかである。従って、この教義は特定の宗教的教義(神社神道や天皇信仰と同じ)であり、簡素に表現するならば、「英霊信仰」又は「英霊教」ともいうべき特定の宗教である。
(三) 日本遺族会の宗教団体性
日本遺族会が靖国神社の祭祓の中に含まれている意味と思想をどのように理解しているかを整理すると、(1)人間の死後、死者の霊が存在する、(2)戦争において、天皇に忠節を尽くして国に殉じた者は、手続を経て靖国神社の祭神とされる、(3)戦没者の霊は、靖国神社の合祓祭において招き降ろされ、祭神として本殿に鎮められる、(4)英霊は靖国神社の祭祓において、戦死に至るまでの忠節を表彰され、感謝される。英霊はこれを喜び慰められる、(5)慰霊祭に参列した者は、英霊の殉国の精神を承継することを英霊の前に誓い、英霊による生者の加護を祈念する、ということになり、このような思想は、イ死者の霊への信仰を前提とし、ロ生者と死者とが靖国神社の祭祓を通じて精神的な交流を交わすことができるという基本的な信仰に基づいている。
このような宗教的教義である英霊の信仰を活動の最重点にしている日本遺族会並びにその系列組織が、憲法上の宗教団体に該当することは明らかである。
3 本件各遺族会の宗教団体性
日本遺族会の各支部たる本件の、<地名略>、<地名略>、<地名略>、<地名略>、<地名略>、<地名略>、<地名略>、<地名略>各遺族会は、靖国神社参拝の事業及び同神社の祭神たる「英霊」を「顕彰」し、「慰霊」するために、「英霊」の象徴(英霊が宿ると信じる)としての忠魂碑を礼拝し、毎年、同碑の前で「戦没者慰霊祭」を開催する事業をその重要な目的事業としている、宗教団体たる日本遺族会の下部組織であるから、本件各遺族会も宗教団体である。
そして、本件各遺族会においては、慰霊祭は神道式によるもの、隔年神道式仏教式交替によるもの、或いはキリスト教・カトリック式も交替執行するものなど、各宗教祭祓を行っている。そして、各遺族会は、本件一四碑の忠魂碑に各地区出身の戦没者を合紀しており、本件忠魂碑を単なる記念碑ではなく宗教的な祭祓ないし礼拝の対象物、霊魂、英霊、忠魂、神霊の象徴(神体)としており、本件忠魂碑は宗教活動を目的とする施設となっている。
このような宗教施設を管理する各遺族会は宗教団体にほかならない。
三 その他の管理主体
本件管理主体には遺族会のほか、日本郷友連盟長崎県支部(長崎公園、佐古梅ケ崎招魂社・坂本墳墓)、招魂廟奉賛会(深堀)、浦上地区忠魂碑保存会(天主公園)、連合自治会(福田、戸石)があるが、これらの団体の性格は次のとおりである。
1 日本郷友連盟長崎県支部
日本郷友連盟の前身である帝国在郷軍人会は、一般的には現役として服役していない軍人の団体で、在郷軍人と軍人家族の福祉厚生や在郷軍人の戦時動員準備を主な目的とする団体であった。そして、帝国在郷軍人会の各地の支部分会が各市町村の忠魂碑の主要な建設主体であり、所有、管理、祭祓主宰の主体であった。
帝国在郷軍人会は、戦後解散させられ幹部にも相当多数の公職追放者が出たが、一九五〇年代に旧軍人の活動が復活し、昭和三一年一〇月に、日本郷友連盟を結成し、会員四五万人を擁する旧在郷軍人の全国統合体として復活した。日本郷友連盟は、防衛庁の外郭団体的性格を持ち、政治団体ではなく精神団体と称し、内外の情勢を明らかにし、国防意識の普及及び民防衛の促進をはかり、もって民防衛体制を確立するとともに、英霊の顕彰等を行い、光栄あるわが国の歴史伝統を承継助長して、祖国の再建に寄与することを運動方針とする。日本郷友連盟は、国防問題、教育問題、憲法改正、靖国神社国営化などで、政治的圧力活動を推進し、また、戦没者慰霊祭の主宰を遺族会とともに実施している。
日本郷友連盟は、英霊の顕彰を行うことによって、日本を再び戦前の姿に復帰させ、天皇中心主義の光栄ある祖国の実現を目指している限り、天皇、英霊を信奉する宗教団体としての性格を持つことは否定できない、。従って、日本郷友連盟も遺族会と同様に宗教上の組織団体の性格を有するものである。
2 招魂廟奉賛会、浦上地区忠魂碑保存会
招魂廟奉賛会及び浦上地区忠魂碑保存会は、地区自治会を単位として組織された宗教施設たる忠魂碑の保存、維持、管理を行い、英霊を顕彰し、英霊を慰霊するための特定宗教による慰霊祭を執り行う団体である。純然たる宗教行事、儀式を中心として組織された団体である限り、これらは宗教法人法に規定される宗教法人、宗教団体ではないが、実質的な宗教上の組織である。
3 福田地区、戸石地区各連合自治会
自治会も宗教行事を実施すれば、
宗教上の組織である。
自治会、町内会の目的は、町民相互の親和と福利増進につとめ、町の民主的な建設発展をはかることであり、もともと営利団体、生産団体、事業団体又は宗教団体ではない。
しかし、(1)神社の祭典を自治会主催で行う、(2)自治会役員が神社祭典実行委員となる、(3)神社の神輿かつぎ稚児行列、出し物などを自治会の子供会にさせる、(4)自治会員は全て一戸平均いくらの寄付をする、(5)自治会費を徴収した予算の中からその一部を神社、寺院、その他の宗教施設(観音堂、地蔵堂、小霊場)に寄付する、(6)護国神社、忠魂碑前の慰霊祭を自治会主催で行い、町内会員の出席、慰霊祭費用拠出、慰霊祭準備などが強要され、祭への労働提供を強要される。そして、町内会員たちは、これらの強制、強要を拒否すると家族や子供までが村八分にされることを恐れ、仕方無く協力する者もあり、はじめから何の疑問もなく協力する者もある。たまたまその地域に居住しているというだけで、神社の氏子とみなされたり、寺院の門徒扱いされ、費用の徴収や宗教行事に半強制的に参与させられる。これと同じく、国家的規模で日本民族全体を強制的に支配したのが、明治以降の国家神道であった。国民は、全て伊勢神宮の氏子とみなされ礼拝が強制され、地域の神社、忠魂碑参拝も強制された。右のような体制が、現在も自治会、町内会の中にそのまま生き続けている。
極めて民主的に町民全員の承認を得て自治会等が神社の祭典等を挙行する場合もあり得るが、その場合は当該自治会等は、実質的に宗教団体であるというべきである。町内会又は自治会の区域内にある宗教施設を信仰する住民たちは、彼らのみで当該宗教団体、宗教施設の信徒会、奉賛会などを結成して、その維持、経営をはかるべきであり、その信徒会、奉賛会は自治会等とは別の組織体とすべきである。その場合、その組織体は宗教法人でなくとも、実質的に宗教団体というべきである。
従って、本件忠魂碑を全自治会で保存し、維持管理し、慰霊祭を執行し、その費用を補助金として長崎市から交付されている福田地区連合自治会、戸石地区連合自治会は、宗教団体である。
第五 補助金支出の違憲・違法性
一 憲法二〇条一項、二〇条三項、八九条違反
1 本件一四碑は、単なる記念碑ではなく、宗教的な祭紀ないし礼拝の対象物であり、宗教活動を目的とする宗教施設である。そして、
かような本件一四碑を管理する各管理主体は、その事業、活動の実態からみれば、宗教上の組織、団体に該当し、本件一四碑に対する本件補助金の支出は、憲法二〇条一項、八九条が禁止している宗教上の組織団体に対する財産の支出、利用に当たる。
2 本件補助金は、英霊、忠魂、神霊を顕彰するという宗教施設である本件一四碑による宗教教育を支援するという宗教的意義を有するものである。市有地に忠魂碑を建てさせたり、補助金交付に際して慰霊祭執行を条件としたうえ、本件一四碑の管理主体に本件補助金を支出するのは、市自身が英霊信仰の宗教教育を実施しているものであり、憲法二〇条三項に違反する。
3 慰霊祭は、特定の宗教(神道、仏教、キリスト教)で行われることから宗教活動にほかならない。従って、市がその慰霊祭執行を条件に公金を支出することは、市が特定宗教の宗教教育を実施することになり、憲法二〇条三項に違反する。
二 目的・効果論による考察
いわゆる津地鎮祭最高裁判決(多数意見)の目的・効果論に従っても、本件補助金支出は違憲である。
1 補助金支出の目的
(一) 長崎市内には、種々の歴史的事実を示す記念碑、道路等の敷設を示す記念碑等が多数存在する。慰霊碑を単なる記念碑というのであれば、歴史的記念碑等についても、その維持管理に必要な補助金の交付が考えられてしかるべきであるが、戦没者慰霊碑にのみ補助している。
(二) 長崎市の本件補助金支出は、従前県から交付されていたものを、昭和五三年度から市を通じて行うことになったもので、県は交付の趣旨につき戦没者慰霊碑等の維持管理の徹底を図るためとし、この趣旨は市の補助金交付要綱にも明記されている。また、補助金交付対象たる碑は、慰霊祭の執行が重要な交付要件となっている。慰霊祭の執行が交付要件とされ、また使途が特定されていることに照らしても、長崎市の交付の目的が宗教的意義を有することが明らかである。
(三) 補助金交付の目的が、戦没者の追悼、遺族の慰藉という目的にあるとしても、戦没者の慰霊とは靖国神社の祭神たる英霊を慰める、死者の霊魂を救済する、そして神霊の加護を祈るという宗教の領域にあるものであり、その目的自体が単なる世俗的追悼(死者のことを追憶し、死者の死を悼み悲しも行為、或いはその感情を表現する行為)を超える。また、戦没者遺族の慰藉も、
右のような英霊を慰める行為によって死者が慰められ神霊も加護することを祈ると考える遺族たちの宗教感情の喚起を意図しているものである。
(四) 忠魂碑が靖国神社の祭神である英霊の中のその地域における戦没者(英霊)を顕彰、慰霊するための地方小分社であって、地域の英霊が祭られている宗教施設であること、これらの碑の前でとり行われる慰霊祭が靖国神社へ直接参拝することに代わる小分社への参拝にあたると解されること、補助金の交付を受ける遺族会等が英霊の顕彰と慰霊を目的とする組織であることを認識したうえで、それ以外の碑と区別して補助金を支出交付するのであるから、その行為はとりもなおさず靖国神社信仰や英霊信仰を目的とする組織への公金支出であって、これを援助、助成する目的を有するものである。
2 補助金支出の効果
(一) 本件補助金は靖国神社の祭神(英霊)に対する信仰を旨とする宗教上の組織たる遺族会等への援助等となっている。
(二) 他の理由による死者(例えば、工事による死者、天災による死者)を祈念する碑に対して補助金の支出が行われていないことに照らし、本件補助金支出は特定宗教(英霊信仰)への援助、助長、促進である。
(三) 多くの宗教の場合、その宗派の儀式や祭礼をとり行うことそれ自体が布教活動であり、儀式、祭礼に出席しているうちに感動を覚え、信者となっていくのであるから、儀式に参列させることこそが最も一般的な布教活動の方法である。従って、忠魂碑前で行われる慰霊、顕彰の儀式そのものが大きな布教活動である。このような布教活動となる慰霊、顕彰の儀式の執行をなすことが、本件補助金を交付する一つの要件となっている。この点で、本件補助金は儀式の執行、すなわち布教活動に対して交付されている。
(四) 国家又は地方公共団体がなし得る戦没者の追悼、遺族の慰藉は、政教分離の原則から、世俗的なものすなわち無宗教方式に限定される。国家の誤った政策に基づく戦争の犠牲者としての戦没者又はその遺族が、国家などに対してその追悼と精神的慰藉を要求することができるとしても、それは世俗的慰藉に限定される。そして、その実現のための手段としての行為は、世俗的なものに厳格に限定し、宗教色を帯びることのないように最大限の措置を講じなければならない。
(五) 本件忠魂碑管理主体に市の公金を支出するのは、英霊、忠魂、
神霊を顕彰するという神社神道による宗教教育を支援するという宗教的意義を持つことになり、その結果、市が直接的に神社神道による宗教教育を実施していると解するのが相当である。さらに、各慰霊祭は特定宗教(神道、仏教等)によって行われており、右各慰霊祭に参加することは、そのまま当該宗教の宗教教育を受けていることになる。従って、特定宗教の宗教教育を実施していることにもなる。
3 まとめ
以上のように、本件一四碑に対する本件補助金の支出は、憲法に定める政教分離に反するものであり、違法不当な支出である。
三 本件補助金支出の地方自治法二三二条の二違反
1 公益上の必要性
地方自治法二三二条の二は、普通地方公共団体は、公益上の必要があるときは寄付又は補助をすることができる旨を定めており、この反対解釈として公益上の必要のない場合には補助をすることができない。そして、この公益上の必要性の判断は、全くの自由裁量ではなく、客観的にも公益上必要であると認められなければならない。
2 忠魂碑に対する本件補助金の支出と公益性
本件一四碑への本件補助金の支出は、以下のとおり、公益上の必要性が全くなく、むしろ、違法性の強い支出である。
(一) 国民主権の憲法理念に反する
現憲法下では、天皇はその政治的、宗教的権威の一切を持たず、あくまでも主権の存する国民の総意に基づいて象徴としての地位を有するのみである。従って、かって教育勅語が示す天皇に対する忠義は、現憲法の国民主権の理念からは、何らの意味も持たないのである。しかるに、国民主権の状況下で、天皇主権下に天皇崇拝、天皇への忠誠のあかしとなった忠魂碑の維持管理費に公金を支出するのは、国民主権の法理に反し、公益上の必要性がない。
(二) 平和主義の憲法理念に反する
忠魂碑が体現しているのは、招魂の思想、宗教観念と不可分一体となった政治的、軍事的観念である。忠魂碑に祭られているのは、国家神道の中心的施設であった靖国神社の祭神である。ここには、戦前のあまねく神威(天皇の御稜威)を諸民族に光被せしめる対外戦争肯定の理念が表象されている。忠魂碑の果たした過去の非平和主義の役割を考えれば、これに補助金を支出することが公益上の必要とはいえない。
(三) 国民の基本的人権主義の憲法理念に反する
忠魂碑が体現しているのは、
「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(教育勅語の一部)という、天皇の命令があれば、国民は戦場に狩り出され、他のあらゆる生活を犠牲にすることを強制され、「ただただ一途におのが本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ、その操を破りて不覚をとり汚名を受くるなかれ」(陸海軍人に賜りたる勅論の一節)を順守することを要求される理念である。そして、その覚悟をさせるために現実に死亡した者の取扱を考慮し、国家は戦死者を英霊として崇め、神として祭るのである。国が個人に対し戦場死という特定の死に方を高く評価し、生命という基本的人権をかろんじた思想の普及に役立てた忠魂碑に補助金を支出することが公益上の必要とはいえない。
(四) 法の下の平等の憲法理念に反する
明治維新以来の社会的変動、政治的騒乱、外征、侵略と内における弾圧によって、国の内外において多くの人が尊い命を落としな。ところが、その中で「天皇の軍隊の一員として」「戦場」で死亡した者だけを高く評価して賛美するのが忠魂碑である。戦没者のみを優遇し、賞賛することは、憲法一四条の理念に反する。かように死者を選別、差別した忠魂碑に本件補助金を支出することは公益上の必要とはいえない。
(五) 政教分離、信教の自由の憲法理念に反する
前述したとおり、本件補助金は、信教の自由条項、政教分離原則に反するもので、本件補助金の支出が公益上の必要がないことは明らかである。
〔被告の主張〕
第一 長崎市の戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付基準について
本件補助金は長崎市の戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付要綱及び同基準(以下「市補助金交付基準」という。)に基づいて交付されている。そして、長崎市が補助金を交付している慰霊碑等は、別紙二補助金交付実績一覧表記載のとおりであり、昭和五六年度は総数三九基あり、原告はそのうち一四基を選別して本件訴訟の対象としてその特定の宗教性を強調しているものである。しかしながら、長崎市は右交付要綱及び市補助金交付基準に基づいて、いわゆる忠魂碑のみでなく、原爆慰霊碑にも補助金を交付していろものであり、従って、本件訴訟においては、右交付要綱の具体的基準たる市補助金交付基準の内容及びその運用の実際が憲法の諸規定に適合しているか否かを論ずべきである。
一 支出の対象たる慰霊碑等
市補助金交付基準によれば、補助金支出の対象は、戦没者及び原子爆弾による死者に対する慰霊碑である。原告は、戦没者等に対象を限定したことが憲法の国民主権主義、平和主義に反し、天皇主権主義、軍国主義への回帰を謳歌し、侵略戦争を美化するものであると主張する。
しかしながら、国家のために戦死した者を特に篤く悼むことは、古今東西、政治体制、社会体制の如何を問わず普遍的に認められている事象であって、これが独りわが日本国においてのみ許されざる行為であるとは到底いえない。戦没者は公的犠牲者であるが故に、またその多くは若くして死に、しかもその死は苦痛に満ちた痛ましいものであったが故に、これに対して特別の敬意を抱くのは自然の感情である。今日諸国の元首等が外国を訪問したりした場合、その外国の戦没者の墓地や記念碑等を訪れてこれに参拝し花輪を捧げたりする慣行があるのは、たとえ外国の戦没者に対してといえども、右のような特別の敬意を払い、またその外国の国民がそれら戦没者に対して特別の敬意を抱いていることを知っている故に、これに対して外交的弔意を明らかにするのである。
原告は、戦没者だけを特別視して、非戦闘員である一般人の戦争犠牲者を本件補助金の対象としていないとして非難するが、市補助金交付基準は冒頭に原子爆弾による死者を挙げているから右非難は当たらない。長崎市の場合原子爆弾による被害を受けたところから、その死者を特に対象としているのであって、一般の戦争犠牲者を戦没者と何ら差別しているのではない。
二 支出の許否の基準
1 公益性への配慮
市補助金交付基準は、碑の建立、維持、管理が個人や営利会社等によって行われている慰霊碑等を対象外として、公益性への配慮を明らかにしている。
2 政教分離原則等への配慮
(一) 市補助金交付基準は、宗教上の組織団体とその宗教的祭礼に関係する慰霊碑等については支出の対象外としている。
(二) 原告は、同交付基準が慰霊祭の施行を本件補助金支出の条件としているとして非難する。しかし右基準の趣旨は、単に忠魂碑等を建立し放しにして維持管理を常態として行わないものを除外するという趣旨である。
そして、ここに挙げられている慰霊祭とは、特定のもしくは不特定の宗教的儀式を意味するものではなく、
その慰霊祭が非宗教的な方式のものであろうと或いは宗教的方式のものであろうと一向にかまわないのである。従って、市補助金交付基準が宗教儀式を強制しているかのような原告の主張は誤りである。
(三) 右のとおり、市補助金交付基準は、神道や仏教等の特定宗教宗派を特に保護する趣旨でなされているのではなく、その特定宗教宗派の宗教儀式による慰霊祭の施行を本件補助金交付の条件とするものでもない。
(四) 原告は、本件一四碑の個々の碑について、その慰霊祭がたまたま神式で行われていたり、仏式で行われていたりしていることを問題とする。そして、その前提として約四〇基の忠魂碑等のうちから、特にそのような本件一四碑を選出して本件訴訟の対象とした。しかし、この取上げ方自体が間違っているのであって、本件一四碑の個々の碑について論ずるだけではなく、本件一四碑全体、更には本件訴訟の対象外の補助金を受けている原爆慰霊碑をも含めた碑に対する市補助金交付基準の内容とその支出の目的効果が全体的総合的に論じられなければならない。前述したように市補助金交付基準は、慰霊祭の宗教性、非宗教性のいずれをも全く前提とすることなしに、客観的基準に照らして平等に本件補助金を支出しているわけであり、現実にも別紙二補助金交付実績一覧表のとおり本件補助金を支出しているのであるから、個々的部分的に原告の宗教思想信条に合致しない忠魂碑等の維持管理に対して本件補助金が支出されているからといって、それが違憲であるということにはならないのである。
(五) 本件一四碑についての慰霊祭の参加者は、該慰霊祭について特段の宗教的意識は抱いていない。
(六) 本件補助金は忠魂碑等の維持管理を行う団体に対して支出されているのであり、慰霊祭の施行を前提としているとはいえ、その慰霊祭における神官、僧侶、神父等に対する謝礼を補助の対象としているものではない。
三 市補助金交付基準による補助金支出の目的、効果
市補助金交付基準による補助金支出の目的は、戦没者、原爆死者等の遺族やその地域住民等の慰藉というもつぱら世俗的な福利目的によるものである。そして、右補助金支出の効果は、特定不特定の宗教に対して援助、助長、促進、圧迫干渉に亘る効果を生じていないというべきである。
第二 本件一四碑に対する本件補助金の適法性
一 本件一四碑の碑銘、
建立に関する事実等は別紙三忠魂碑等一覧表記載のとおりである。
二 本件一四碑の非宗教施設性
1 本件一四碑は、いずれも明治以降の戦争戦役の戦没者或いはこれらとともに原爆犠牲者を追悼記念するため、民間有志団体によって建立されたものである。
右の慰霊対象のうち、戦没者は一般の私的な事故死者ではなく、兵役(その他、従軍看護婦、白紙徴用者、動員学徒、女子挺身隊員の殉職者をも含む。)という公務の殉職者である。およそ古今東西を問わず、殉職した警察官、消防官、戦死した将兵等に対し、市民が国家社会のために一身を捧げた尊い犠牲者として、これを感謝と尊敬と哀惜の念をもって追悼し記念することは、人間の感情の自然の発露であり、またそれを記念日を設けて記念したり(例えば、全国戦没者追悼式)、それを有形のモニュメント(記念碑)に化して永遠に記念しようとすることも、同様に人類普遍の現象、すなわち習俗的行為であって、特にこれを目して特定の宗教信仰の表現と観たり、宗教施設と観たりすることはできない。
戦前において、昭和一四年(一九三九年)七月陸軍を推進母体として発足した財団法人「大日本忠霊顕彰会」が、従来全国各地に散在する遺家族等による戦死者の追慕記念のための民間忠魂碑の習俗的、記念碑的性格にあきたらず、七生報国の靖国精神をもって戦意高揚をはかるべく、全国市町村に建設した半官製の「忠霊塔」が存在した。これらの忠霊塔は遺骨遺品を碑内に納めることができる形式の墳墓の性格を兼ね供えた礼拝対象であり、その性格、形式、建立者の全ての面で、従来のまたその後の忠魂碑と異なっていた。これらの忠霊塔は、戦後連合国総司令部の指令に基づく内務文部両省の通達によって破壊撤去されたのである。これに対して、本件一四碑の建立者は地域共同体、遺族団体その他の民間有志の共同体であり、靖国神社その他の宗派とは特別のかかわりがない。
2 原告は「忠魂」「招魂」の字句を捉えて天皇への忠義であるとか、招魂社、靖国神社、国家神道、天皇主権主義、軍国主義の脈略を説く。しかし、「忠魂」とは慰霊対象である死者の性質について表現した言葉であり、「招魂」とはこれを慰霊追悼する側の立場から表現した言葉であって、原告が主張するような国家神道とかかわりのある言葉ではない。
3 原告は、戦前の天皇主権主義、国家神道、軍国主義による信教の自由の弾圧の歴史を述べて、それを本件一四碑やその慰霊祭と系路づけて本件補助金支出の違憲性を主張する。しかし、戦前においてすら、忠魂碑等やその前での慰霊祭等がもつぱら招魂の思想、或いは国家神道に基づく天皇崇拝の観点からのみ行われていたとは認め難く、それは同時に各遺族ら各人各様の思いでそれぞれ戦没者の生前を想起して、故人を追悼するという側面を持っていた。そして戦後、現憲法のもと天皇の神格化と天皇主権が否定され、軍国主義的国家体制が解体されたことで、国家神道は制度的にも国民の信仰上からも消滅したとみるべきである。従って、戦後半世紀近くに至った今日においては、忠魂碑は、国家神道上の宗教施設としての二次的性格は希薄化して消滅し、本来の沿革的な戦没者等の事蹟を記念顕彰するための記念碑の性格に立ち帰ったのである。今日でも本件での証人の何人かは忠魂碑は戦没者の霊を祭ったものであるとか、その前での慰霊祭は戦没者の霊を招き寄せて慰めるものであるというような宗教的感情を洩らす者もあり、そのような宗教的感情は未だ相当多くの人々の中に意識的ないし無意識的に残存していると思われるけれども、天皇の神格が否定され、制度的国家神道の解体した今日、それらの宗教的感情を忠魂碑への日常拝礼、参拝に公的強制的に結び付ける要素はもはや存在しない。それゆえ本件一四碑も、他の死者を追悼記念する碑や塔のモニュメント一般に対して一般人が抱く宗教的感情と特に異なったものがあるわけではないから、今日本件一四碑はもつぱら戦没者を追悼記念顕彰するための記念碑としての性格をもつものである。まして戦後建設された別紙三忠魂碑等一覧表の番号4、7、9、12の「慰霊之碑」の各碑についてはなおさらのことである。
三 碑前での慰霊祭の性格
原告は慰霊祭が「忠魂英霊を慰める」ことを目的とした宗教行事であり、戦前の靖国神社の祭祓と同質問根のものであるかのような主張をする。しかし戦前の慰霊祭がもつぱら右のような性格に限らないことは忠魂碑について前述したところと同様であるから、祭礼の外形にとらわれることなく、実質的判断をすべきであり、天皇への忠義を無上の徳とする国家神道が消滅した今日、それが直ちに靖国神社の宗教観念に結びつくものではない。ところで、右慰霊祭には神官、僧侶或いは神父が儀式の主要部分を定められた宗教儀式に則りとり行っている。しかしながら、先述のように国家神道が消滅し、忠魂英霊たるゆえんを天皇への忠義で基礎づけられなくなった今日、これをもって直ちに忠魂を慰める、すなわち原告のいう天皇のための戦死を賛美し、軍国主義を鼓吹する宗教儀礼だとはいえない。また慰霊祭に参加する人々もそれぞれの宗教、それぞれの想いをもって集まっているのであり、たとえ神官、僧侶、神父らが儀式を主宰しようとも、それらの者の宗教活動に参画し、これを布教、助長しようとする意図もなく、また現実にそのような効果も認められない。なぜなら、これらの参加者の観念は忠魂碑に限らず、他の死者を追悼記念する儀式の際に多くの日本人が抱く宗教的感情と特に異なるものではないし、遺族会等の会員が本件慰霊祭に参加したり忠魂碑等を管理したりするゆえんは、その宗教的性格からではなく、それが地域の戦没者を記念するからなのである。これが地域の共同体意識・連帯意識であり、きわめて素朴で習俗的土俗的感情にすぎない。また、儀式が厳粛であったり、忠魂碑のたたずまいが荘厳であったりするからといって、宗教性が肯定されるわけではなく、それはそもそも儀式の本質であって、単なるショーではない以上儀礼の演出効果を高める当然の要素にすぎない。死者の遺族が、死んだ者に会えないことで、せめて墓碑に語りかけたり、本件慰霊祭に参加したりすることは、人間感情の素朴な発露であり、宗教以前の自然な感情発露の行動である。
四 本件一四碑管理主体の非宗教団体性
遺族会、自治会その他の本件一四碑の管理主体は、憲法二〇条一項、八九条にいう「宗教団体」「宗教上の組織」ではない。
1 各遺族会
各遺族会は単に長崎市遺族会や長崎県連合遺族会の下部組織ではなく、独自の組織と規則、財産を有する独立の団体である。これらの団体は、以下のとおり、いずれも宗教上の組織や団体とはいえない。
宗教団体とは通常「一定の教義を有し、これを布教宣伝することを目的とする教団、教派、教会その他の団体」と定義される。しかし、原告の立場のようにこれを「信仰について意見の一致する者で結成された宗教活動を目的とする組織もしくは団体」と、より緩やかに解する立場もあり、原告は、かかる立場から「英霊教」という宗教を発明して、遺族会等がこの「英霊教」の宗教団体に該るとしている。
長崎県連合遺族会寄付行為三条、四条には会の目的、事業の一つとして「英霊の顕彰並びに慰霊に関する事業」等が謳われている。しかし、前述のように戦後の国家神道の消滅等により、今日英霊とは従来の「天皇のために戦って死んだ者の魂」という意味から離れ、単に国家のために生命を捧げた死者という意味での、戦没者に対する美称として用いられているにすぎないとみざるを得す、それが「霊」という言葉を使っているなめ、死者の霊が存在するとの宗教的観念を想起させはするが、もはやかっての実質的国家神道と結びついた意味での宗教性は失われたというほかはない。そして前記寄付行為の三条、四条以外の部分を詳しく見ると、遺族会は本来英霊の顕彰事業自体を目的として設立された団体ではなく、戦後の戦没者等の遺族の困窺の中でその処遇改善、福祉の向上を目指して結成されたものであり、かつ現実の活動面も当初は特にもつぱらそのような事業のみであった。そして遺族会の会員らは、単に戦没者の遺族であるという共通点で結束されているが、その宗教に関する意見は区々であり、いかに見ても「英霊」について意見の一致する者によって結成され、英霊宗教活動を目的とする団体であるとは到底見ることはできない。戦没者は靖国神社に祭られ、その多くがまた忠魂碑等で顕彰されているが、だからといって遺族会の目的や活動が靖国神社のそれと合致しているとか、国家神道、靖国神社の教義(宗教思想)の発展普及を目的としているとの証明がなされているわけではない。これら遺族会の本質は遺族の福祉という世俗的目的にあり、本件慰霊祭等の追悼行事も遺族の精神的慰藉を目的とするこれまた世俗的目的に出たものである。すなわち右慰霊祭は神道仏教等の信仰を目的としたものではなく、かかる行為が遺族会の存在に不可欠なわけでもない。かかる行為は右福利目的の遂行手段にすぎない。
2 各自治会
自治会は住民の福利を目的とする団体であって、本来宗教団体でない。住民は社会生活上神社の祭礼や本件慰霊祭にかかわってくる場合、この関わり方も社会生活の一局面である以上何らかの社会的活動、組織活動となる。この活動が自治会を通じて行われた場合は原告によれば、自治会は宗教上の組織もしくは団体になるというが、前記の宗教団体に関するより緩やかな定義に従っても、自治会は宗教に関する意見の一致する人々の結成したものとはいえないし、逆にいえば意見が一致しないまま活動しているのが自治会の実態でもある。そしてその活動がいかなる意味においても宗教活動であるとはいえないことは遺族会の場合以上である。
3 招魂廟奉賛会、浦上地区忠魂碑保存会
招魂廟奉賛会、浦上地区忠魂碑保存会は自治会を単位として組織されたものである。そして右各会の目的に関係する招魂廟や忠魂碑が宗教施設でないこと、慰霊祭、英霊の顕彰が宗教儀式ではなく、右各会が前記の宗教団体の緩やかな定義に照らしても宗教団体でないことは遺族会について述べたところから明らかである。
4 日本郷友連盟長崎県支部
日本郷友連盟の目的に「英霊の顕彰」があるが、これについては遺族会について先に述べたとおりである。また「国防思想の普及」等の目的もあるが、これをもって国家の自衛、防衛の必要性、愛国心の涵養といった一般論を越えて軍国主義、超国家主義に結びつくとしたり、旧在郷軍人会と同一の尚武団体であるとするならば、これは当を得ない。
五 本件補助金の支出と憲法二〇条一項、三項、八九条との関係
本件補助金支出自体は、本来何らの宗教的意義を有する行為ではなく、被告が長崎市長として本件各支出を行った目的は、前述の世俗的団体である遺族会その他の団体に対し、戦没者遺族の慰藉という福利目的をもって行う、もつぱら世俗的なものであり、仮にこれらの団体の宗教に関連性をもつ活動に援助の効果が及ぶ結果となっても、同団体等が例えば戦没者の遺族の集合体や地域住民の集合体にすぎないものであるところから、慰霊祭等の遺族、地域住民の慰藉という活動の一環としてのものにすぎず、特定の宗教、宗派の普及拡大といった宗教的活動目的でないこと、更に本件補助金の支出額自体も碑一基当たりわずか年間四万円であり、各管理主体運営がこれがなければ成りたたないわけではなく、社会的に不相当な金額ではない。従って本件補助金の支出による効果も特定の宗教を援助、助長、促進したり、または他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められず、ゆえに本件補助金の支出は宗教とのかかわり合いが、我が国の社会的文化的詣条件に照らし、信教の自由の保障という制度目的上未だ相当とされる限度を越えていないというべきである。
六 本件補助金支出の公益上の必要性
前述のような本件一四碑の性格、その管理主体の性格、維持管理の実態から、長崎市がその管理主体たる民間有志団体に対し、そのボランティア活動たる維持管理の費用に充てるため補助金を交付することは、国際文化都市、国際平和都市を目指す同市にとって、公益上の必要がある。また、本件一四碑等は、公園や事実上市民にとって公園機能を果たしている神社境内に在るから、その清掃美観維持は風致上重要であり、観光都市である長崎市にとって公益上の必要がある。
番号 碑の名称 所在(長崎市) 管理主体
1 忠魂碑 <地名略> 天主公園内 浦上地区忠魂碑保存会
2 忠魂碑 <地名略> 式見小学校運動場 式見遺族会
3 招魂廟 <地名略> 深堀神社境内 招魂廟奉賛会
4 殉国慰霊塔 <地名略> 裳着神社境内 茂木遺族会
5 殉国忠魂碑 <地名略> 大山祇神社境内 土井首遺族会
6 忠魂碑 <地名略> 福田天満神社境内 福田地区連合自治会
7 殉国慰霊塔 <地名略> 八幡神社境内 古賀地区遺族会
8 殉国慰霊塔 <地名略> 矢上神社境内 矢上地区遺族会
9 殉国慰霊塔 <地名略> 戸石神社敷地内 戸石地区連合自治会
10 忠魂碑 <地名略> 大山祇神社内 小ケ倉地区遺族会
11 忠魂碑 <地名略> 養国寺内 長崎遺族会日見支部
12 慰霊之碑 <地名略> 大神宮神社境内 長崎市三重遺族会
忠魂碑
13 忠魂碑 <地名略> 長崎公園 日本郷友連盟長崎県支部
(長崎県郷友会)
14 佐古梅ケ崎招魂社 <地名略> 日本郷友連盟長崎県支部
坂本墳墓 <地名略> (長崎県郷友会)

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